ポルボー合意発効

スコットランド聖公会首座主教・リチャード・ハロウェイの説教

 1996年9月1日日曜の夜に、ノルウェイのトロンヘイムにあるニダロス大聖堂 で、歴史的なポルボー合意の調印が行なわれた。この合意はイギリス聖公会、アイル ランド聖公会と北欧およびバルト海沿岸のルーテル教会のあいだで交わされるもので、 諸教会間のより深い関係と、目に見える一致に向けての新たな一歩を委ねるもの。以 下は調印式が行なわれた礼拝中での説教で、スコットランド聖公会首座主教であるリ チャード・ハロウェイによるもの。

 イギリス聖公会、アイルランド聖公会と北欧およびバルト海沿岸のルーテル教会と のあいだで交わされる歴史的なパルボー合意の発効に立ち会い、その喜びをともにす る機会が与えられたことは、名誉であり、またうれしいことであります。この合意は、 わたしたちのあいだのより深い関係と、目に見える一致に向けての新たな一歩を、わ たしたちに委ねるものです。わたしたちはこのユーカリスト(聖餐式)の中で厳かに 署名されるこの合意に感謝したいと思います。感謝すべきことは多々あるのですが、 わたしたちが忘れてならないのは、この合意が重要かつ心あたたまるできごとではあ りますが、これはパウロがより大きなもの、すなわち教会に対して神が願う完全で目 に見える一致が来るための、真剣な、第一段階と呼んだであろうものだということで す。ですからわたしたちは、すでに達成されたことを喜ぶと同時に、きょうの日が約 束してくれたより大きなものに向けての、尊い忍耐の中にある苦痛をも否定しないこ とにしましょう。より大きなものとはヨーロッパ聖公会の発効です。それは、ばらば らにわかれてしまったキリストのからだがひとつのまとまりに集められることを先に 味見することで、それこそキリストが神に祈られていることなのです。

きょうこの日が聖公会に恩恵として与えてくれることをわたしが期待しているのは、 義認の教理(訳注:人は自らの行ないによってではなく神への信仰によってのみ義と されるという考え方。パウロは「恵みによって」ということを主張したが、ルターは それを「恵みのみによって」と深めた。)のラディカルさを再発見することです。こ れは特にルーテル派の教会が、来るべきより大きな教会のためのささげものとして維 持している教理です。恵みのみによる義認という教理は、もともとパウロによって展 開され、核心にあるものとして主張されました。しかしそれはパウロが発明したもの でもなければ、完全を求めての彼の望みなき探求を絶望的に投影したものでもありま せん。義認の教理はイエスのメッセージの中心に存在するのです。特にルカによる福 音書の中の、放蕩していた息子が帰ってきた場面で、息子が計算ずくの後悔の言葉を 口にする前に駆け寄り、赦しと恵みを注いだ、傷心の父親の愛の中に義認の教理を見 ることができます。この崇高な教理はブリテン(訳注:イングランド、スコットラン ド、ウェールズの総称)では人気が出ることはありませんでした。ことにイングラン ドでは。ペラギウス(訳注:だれだろう?)も所詮はイギリス人でした。レベッカ・ ウェストはそのすばらしい小説「 the birds fall down 」の中で、ロシア人に次の ように語らせています。

 「イギリス人は神を蚊帳の外に追いやっておいて、社会秩序と組合についての処方 箋を求めている。そこで彼らは、人々に道徳的であるべきことを教えることが宗教の 存在意義であると思わせようとする。けれどもわたしたちロシア人は、宗教が道徳と 非道徳の両方にかかわるものであることを知っている。人間にとって神の愛とは神に 対する人間の愛に出会うことであって、神は、勤勉な者、誠実な者、信仰深い者を愛 されるのと同じだけ、不品行な者、犯罪者、怠惰な者を愛される。神は、殺人者、泥 酔者、嘘つき、物乞い、泥棒の愛を求めるほどに自らを低くされる。この崇高にして かつ常軌を逸した関係を結ぶことができるのは、神だけなのだ」。

 しかし神の無条件の恵みによる義認の教理は、わたしたちの道徳的な失敗をはるか に上回るものなのです。そしてそれはわたしたちの個人的な罪にだけ有効なのではな く、わたしたちの社会構造、思想、神学、教会組織に対しても有効です。わたしたち は今あげたもののどれひとつによっても義とされることはありません。人間的なもの すべてはそうであるように、それらのすべては神の裁きと寛容のもとにおかれるので す。わたしたちの時代の神学者の中でそのことに気づいていたのはパウル・ティリッ ヒです。「プロテスタントの伝統」の序文に彼は次のように書いています。

 「あのころわたしが用いていたステップは、信仰を通しての義認の原則が宗教的− 倫理的な生活のみならず、宗教的−知的生活にも関係しているという洞察だった。罪 に陥った人のみならず、疑いにとらわれた人もまた信仰を通して義とされるのだ。人 は正しい考えや知性を葬り去ること、あるいは教会の教義や聖書といったおかしな権 威に服従することによって神にたどりつくことはできない。できないだけではなく、 そうするようにと求められてさえいないのだ」。

 ポルボー合意においてわたしたちは、教会の一致と継続のしるしとして価値をもつ、 歴史的な主教制についてのコンセンサスを大切にしてしています。合意に用いられて いる言葉はどれも注意深く選ばれ、歓迎すべきものなのです。しかしこの合意は、キ リスト教の聖職位の性格をめぐって何世紀にもわたって繰り広げられてきた議論の上 に垂れこめる暗い影には、注意を払っていません。わたしが教えられた伝統の中では、 主教は一致と継続の象徴をはるかに越えるものでした。主教は教会の根本的な性質と 儀式の有効性を保証するよう守らせ、わたしたちが自分自身に対して要求することを 確かに義とするような、何か使徒的なものをわたしたちに与えてくれました。わたし たちの聖職位が完全に無価値かつ無効であると宣言する者がいたとしても、わたした ちは自らが使徒的継承の完全なつながりに由来する正しさを手にしていることを知っ ていました。その使徒的継承は比喩でもなければ継続を表わす力に満ちた象徴などで もなく、わたしたちを大きな使徒の仲間として位置づけてくれる確かな経験上の事実 また法として存在しました。わたしたちは聖公会のペラギウス派(訳注:人間が自分 の力によって救いを得ることが可能だと考える)だったのです。わたしたちは神の常 軌を逸した気前のよさよりも、恵みのパイプ理論(訳注:神の恵みは水道管を水が流 れるように、イエス・キリストを通してわたしたちにもたらされるというもの)によ って自らを義なる者としてきました。もし今わたしたちが主教制に対して正直になる とすれば、以下のことを認めなければなりません。ある者が主教職を自分を義とする ための偶像にしてしまっていること、そして主教職の実践が、僕なる主の示す基準と 同じだけこの世の支配者たちの基準に則って行なわれているということです。僕なる 主は、異邦人のあいだにあっては大きなものと感じられる権威を、あなたがたのあい だでは大きくしてはいけないと警告されました。もちろんわたしたちはそれを大きく してきました。その結果としてかくも多くの教会が、主教制と、キリストには似ても につかぬ虚飾とうぬぼれを捨て去ってきたのです。ポルボー合意に署名した教会は、 もはや君主制的な主教職をとることはできません。わたしたちにとって主教職とは、 個人、組織、共同体にもたらされる牧会的な監督を指し、それは教会全体の下に属す るものなのです。わたしたちの教会は会議制の上に成り立つ教会です。わたしたちの 主教は、今や会議制の中の主教です。わたしたちの主教制の思想は、わたしたちが自 らを義とするやり方の中では決してもつことができない真理へとわたしたちを導く聖 霊のうながしによって発展してきました。偶像からわたしたちを解き放つ神の恵みの みが、わたしたちを義とするのです。偶像は信仰生活の孤独の中に自らを慰めるだけ のものです。

 きょうわたしたちはケノーティック(訳注。ケノーシスとはイエスがご自分のもつ 神性を放棄して受肉された、すなわち弱い人間の体をまとってこの世界に現われたこ とに神の愛を見出す考え方。19世紀のルター派が特に強調した)な主教制がどのよ うなものかというあらましをつかみはじめています。今日、人を主教たらしめるのは、 あとからとってつけられた権威ではなく、その人に本来備わっている権威です。重要 なのは主教のリーダーシップの質であって、守っている職務ではありません。キリス ト者の共同体がかかわる目的をはっきりと表現できる能力であって、ペッキング・ オーダー(訳注:鳥の世界では強いものが弱いものをくちばしでつつき、だれが強い かという順番をはっきりさせる)のどこに位置しているかということではありません。 わたしたちは正しい方向に向かっています。しかし道のりはまだはるかです。主教職 の実践は個人的、組織的、共同体的なものですが、主教職という名の劇場はまだまだ 君主的であり階級的です。わたしたちは most、right、very reverends といった複 雑なあて名や肩書きあまりに好むという悪い癖があります。わたしたちはマイター (訳注:主教の帽子)や主教の杖といった職務のしるしにあまりにしばられすぎます。 そして肩書きがすばらしくなり、見かけがゴージャスになるほどに、わたしたちは用 心深くなりがちです。一致と継続のしるしになることは、どんな肩書きや見かけをも っていたとしても他人をうろたえさせない、完全ないいわけをわたしたちに与えます。 トゥールの聖マルタンは、主教は羊飼いと漁師の二つのかたちにわかれるといいまし た。羊飼いは群れを養いますが、漁師は深みに漕ぎ出していきます。彼らは岸から船 を遠ざけるのです。彼らは牧会的であるのと同様に預言者的でもあるのです。すばら しい例外はありますが、聖公会の主教に預言者的な人はほとんどいません。ヨーロッ パ諸国が前例のないチャレンジを受けているこのときに、わたしたちすべてがこの時 代に向けて大胆に語るようポルボー合意が励ましてくれることを祈ります。

 トマス・マートン(訳注:アメリカのトラピスト修道会の修士。禅や東洋への興味 が深かった)は、ポーランドの詩人で第二次世界大戦中には社会主義者のレジスタン スの一員でもあったチェスロウ・ミロスにあてた手紙の中に次のように書いています。 この居心地がよく社交的なカトリシズムや、キャソックの整列や、ビレッタ(訳注: 四角の黒い帽子)の統制の土台を崩す必要がある。わたしは自分のビレッタを川に投 げよう。この言葉はわたしにひとつのアイデアをくれました。1998年にカンタベ リーで行なわれるランベス会議に参加する全聖公会の主教は、テムズ川で船遊びをす るといううわさがあります。わたしは主教制に対する新たな理解にかかわるしるしに、 マイターを持ち寄り、それを川に投げ込む運動を展開します。北欧とバルト海沿岸の 諸教会の主教たちは、高位聖職者の尊大さの象徴であるマイターの大量溺死に参加し てくれることと思います。そのことをとおしてわたしたちは、より簡単で、キリスト に近い教会への理解へと移ることができるでしょう。

 わたしたちがきょうここで行なったことが、主イエス・キリストの危険な恵みに向 かって教会が喜びをもって従う助けとなることを祈ります。キリストは今も世々に限 りなく、父と聖霊とひとつの神です アーメン。

(カンタベリー大主教のメッセージは略します)。訳責:秋葉晴彦

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