2006年11月号

八月に堅信式を受けられたご婦人の様子を思い浮かべますと心が温かくなります。
 九十歳になってから洗礼・堅信式を受けられ、教会に出席することを楽しみにしておられるのです。車椅子を使って行動されますので自由には移動できません。しかし、限られた中で教会に出席することを選び取っておられるのです。教会の人々と共に座って祈り、聖歌を歌い、礼拝後の交わりを楽しまれているのです。
 この方は熱心に他の信仰を持って歩んでいた方でした。しかし、家族がクリスチャンとして生きている姿を長く目にしていた中で、自分も同じ生き方をしたいと決心し、新たなあゆみを始められたのです。
 九十歳になって洗礼・堅信式を受け、新しい歩みを始められた。この方の姿はわたしの思い込みを見直す時となりました。 
 わたしの同世代の友人が「今から新しい人間関係に入るのはわずらわしいヨ。」と言った言葉に囚われ、多少のプレッシャーを感じていました。
 しかし、キリストとキリストを大切にしている人々の交わりには、九十歳の人に「また行きたい」と言わせる程の魅力があるのでしょう。
 神の霊が人々に注がれるとき、全ての人が喜び、希望を持って歩み出すと述べる聖書の言葉を思い出します。
 「わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。あなたたちの息子や娘は預言し、老人は夢を見、若者は幻を見る。」  ヨエル書 3・1
 八十八歳で受洗し、六年間信徒として歩み、九月に天国へ旅立った人がおられます。その方がキリストの御言に感動する様子は、その場に居合わせた者の心を動かす程のものでした。
 感動と夢を持って生きる年長者に、神の霊の働きを感じます。

2006年10月号

 「わたしを強めてくださる方のお蔭で、わたしはすべてが可能です。」(フィリピ4・13)

 この聖句はわたしが主教に選ばれて、不安な思いになっていた頃、久保渕主教様から贈られた聖句でした。久保渕主教様ご自身も励まされた聖句であったそうです。
 この言葉は、パウロがローマの牢獄に閉じ込められている中で、フィリピの仲間たちに送った言葉でした。今日にでも殺される可能性があるにも拘わらずパウロは「わたしにはすべてが可能です。わたしを強めてくださる方のお陰で。」と力強く言われたのです。
 「あれができない、これができない」と否定的に成っている時に、パウロの確信を持った肯定的な言葉には、からだ全体をシャキッとさせる、目を醒まさせる力がありました。
 定住の聖職を送ることができない九州教区の状況の中で、ある教会委員の話された言葉は忘れられません。「大丈夫。教会は潰れませんよ。夫の故郷の教会でも定住聖職が送られないと知った時には様々な心配がありました。でも今もチャンとしてますよ。姉も教会の奉仕をしているそうです。」
 困難な教会運営が予想される時に、否定的になりがちですが、先ず、キリストに目を向けるならば、考え方、行動の仕方に違いが現れてくるのではないでしょうか。
 パウロが同じ手紙の中で言われた次の言葉に教会運営の視点を置いてみてください。「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます。どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。」(フィリピ4・4〜6)

2006年9月号

 「あなたのみ手にわたしの霊をゆだねます。主よ、まことの神よ、わたしを贖ってください。」
 この言葉は詩篇31篇5節の言葉です。イエスさまの時代には、夜、寝るときにこの言葉を唱えてから床についたと言われています。
 また、イエスさまが十字架の上で、人々を支え、励まし、救う働きを終えたときに「あなたのみ手にわたしの霊をゆだねます。」と言われて息を絶えたと聖書には記されています。
 元九州教区主教の久保渕主教さんの葬儀が大阪の川口キリスト教会で密葬として行われました際に、わたしは司式の依頼をされ、嬉しく思いました。
 司式は棺の傍らに立って行いましたが、その時にわたしの心にフーと思い浮かんだ姿があります。それは、丁度、聖職按手の際、嘆願が行われている最中、按手候補者が、身体全体を床に伏して祈っている姿なのです。久保渕主教さんが94年の人生を全て主に委ねている姿でした。
 主教さんと久保渕家の皆様の願いによって、礼拝堂内には遺影を置かず、花も特別には用意はせず、日常の主日礼拝の準備の中で葬儀が行われました。
 葬儀となりますと亡くなられた方への思いが当然、強くなってきます。
 その方のために花を送って、気持ちを表したくなります。遺影が棺の前に置かれていますと、ついキリストを思わず、亡くなられた方のお顔を思い浮かべ、祈ってしまいます。
 しかし、久保渕主教さんの葬儀は「あなたのみ手にわたしの霊をゆだねます。」との信仰を表すものでした。 
 久保渕主教さんが際立つ葬儀ではなく、主教さんの祈りを会衆一同が共にする、主イエス・キリストを指し示す葬儀でした。

2006年8月号

アッシジのフランシスの平和の祈りは、教会において、しばしば引用され、また聖歌としても歌ってこられたのではないでしょうか。今年11月に発行予定の日本聖公会聖歌集の中にも載せられることとなっています。
 「慰められるよりも、慰めることを求めよう。愛されることよりも、愛することを求めよう。」とクリスチャンとしての生き方、人としての生き方を確認して、意思表示をいたします。
 愛してほしい、顔を向けてほしい、声を掛けてほしい、慰めてほしい、との願いは当然の願いであります。人が自信を持って生きるための原点ともいえるものです。反対に見向きもされず、見捨てられることは、命に関わるような出来事です。
 3300年程前のイスラエルの民はエジプトにおいて見捨てられる者として生きた人々でした。それ故にイスラエルの人々に神が目を向け、彼らの絶望の叫びを聴かれたことは、彼らにとってこの上ない喜びと感謝となったことでしょう。
 その辛い体験から、彼らは自分たちの生き方の中に、他の人々に関心を持ち続けるようにとの神の御旨を感謝して受け止めて歩んできました。
 祭りをするときにも自分たちだけで楽しむのではなく、「息子、娘、男女の奴隷、町にいるレビ人、寄留者、孤児、寡婦などと共に喜び祝いなさい」(申命記16章11−12)と記されています。
 関心を向けてもらえた喜び、愛された喜びを知っている者は「愛すること」、「関心を向けること」の価値を知っている者です。主イエスはこれを黄金律として、貴方がこれを行いなさいと言われます。「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。」(ルカ6章31節)
 この黄金律が手でさわれるように、わたしたちの周囲にあることは教会のヴィジョン(夢)です。

2006年6月号

4月28―29日に湯布院に於いて召命黙想会が開かれました。橋本克也司祭(横浜教区)の導きにより、各自がクリスチャンとして生きる召命を確かめるときでした。
 橋本司祭の講話でわたしは特に、次の二つの言葉が心に残りました。
 「弱さが強さを支えている」との言葉と「聖書の言葉は、今日、あなたが耳にしたとき、実現した。」と「今日」を強調した言葉でした。
 弱さを受入れる事は中々しんどいことです。年を取る事、あれが出来なくなった、これが出来なくなったとの現実を受け止める事。病気になり、食べることから、排泄まで人の世話になる事。それらを受け止めきれないときは、心が萎えてしまうであろうと想像いたします。
 しかし、その現実を受け止め、ありのままの今の自分が神様から愛され、祝福され、既に用いられていると知るときには、前に向かって生きているのではないでしょうか。最早、弱さはその人を押し潰すことなく、ありのままの自分を受け止める原点になります。
 ルカの福音書では、イエスが人々に語りかける伝道の初めと終わりに「今日」を強調していたと橋本司祭は述べていました。イエスが伝道を開始した時、聖書のイザヤ書を朗読して「今日、実現した」と言われ、最後には十字架上で隣に十字架に付けられている犯罪人に「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われました。
 無条件に、今のままのわたしたちが愛され、祝福され、既に用いられている。
 黙想会では平安を覚える交わりを神と人との間で持つことができました。
 鶯によって目覚めさせてもらい、鶯の声で黙想会が導かれ、鶯の声で家路に送り出されました。

2006年5月号

先日、定年間近の友達がわざわざ福岡まで訪ねてくださいました。定年になったら意義あることをしたい。一緒に主日ごとに各教会を訪ねたい、との申し出でした。クリスチャンの家庭に育ち、教会活動にも積極的に参加する人でした。この人が人生の集大成の時期になって、もう一度自分と神を見つめ直しているのでしょうか。わたしの目を確りと見つめて質問してきたのです。「先生は本当に神が存在すると思っていますか?本当に信じていますか?」この問いは、わたしもしばしば自分に問ってきたことですので、彼の質問を真面目に受け留め、「ウン。在る、と信じている。在る、と感じている。」と伝えましたが、彼は「フーン」と息をついて、わたしの言葉を思い巡らしているようでした。
 これまでに多くの人の言葉を聞き、神の存在証明を求めたのかも知れません。でも、出会いによって存在を顕される神ゆえに人からの存在証明をもって伝えるとしても納得できるまでに成らないのかも知れません。わたしは神がモーセに言われた言葉「わたしはある。」(出エジプト記3・14)を思い巡らすときに、力強い、神からの存在証明として受け留めるのです。また、神がどのような方なのかを、ご自身で表明されている出エジプト記34章6節以降の言葉を聴くときに緊張を覚えつつも、心が温かくなるのです。「憐れみ深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみとまことに満ち、幾千代にも及ぶ慈しみを守り、罪と背きと過ちを赦す。しかし、罰すべき者を罰せずにはおかず、父祖の罪を子、孫、に3代、4代までも問う者。」共同生活をしている3代、4代に問うて、神の元に帰るように導く神に感謝です。わたしはこの様に神を感じ、信じているのです。


2006年3月号


 先日、久保渕主教ご夫妻を訪ね暫く懇談する時を持ちました。
 九州教区主教を退職して二十五年目になりますので誕生日を迎えて九十五歳に成られるとのことです。九州の各教会の名前を挙げて話しますと、あの人、この人の名前が出てきました。二十五年前のあの人、この人を思い起されているのでしょう。あの人は元気な人だった、この人は強かった等と笑顔で話されました。二十五年後の、あの人、この人を知っているわたしにとっては好々爺(こうこうや)の人たちなのですが。
 久保渕主教が就任された頃は教区センター建築、長崎聖公ビル建築などでかなりハードな仕事をされたのでしょうが、思い出すことは楽しい交わりであったのでしょう。延岡聖ステパノ教会訪問の際には、国鉄に乗車して帰る際、プラットホームに信徒の方々が並び、万歳をされたことがよっぽど恥ずかしく、嬉しく、楽しかったようでした。二回もその時の様子を話されました。今もわたしは九州教区の者であると言われている久保渕主教の心を嬉しく感じました。光子夫人も明るい笑顔で思い出を楽しく語ってくださいました。以前、福岡に来られた際の骨折の痕はありますが、明日にでも福岡に来られそうなご様子でした。わたしたちの九州教区を、篤い思いを持って見つめ、今も祈ってくださる久保渕主教ご夫妻がおられることを嬉しく思いました。
 同じ信仰に生きる聖徒の交わりは、わたしたちの信仰生活を生きる上で力となります。祈り、祈られる交わりに在ることに喜びと希望と主の平安を覚えます。


2006年2月号


先日、改訂聖歌集にある聖歌2026番が礼拝で歌われました時、しきりに涙を拭いている方がおられました。「深い闇の最中に、きらめく星は、道に迷う人への、神のまなざし、メリーメリークリスマス 神のみ子よ、ハレルヤ クリスマス 歌え喜べ」2節は「風にすさむ砂漠に」で始まり、3節は「疲れた心に」と歌われます。
 宮崎の洪水によって被災したこの人は夜の3時半に救助されるまでの間に体験した様々なことを思い起こしたのでしょう。胸まで水に浸かりながら、子供の身体に浮き輪代わりに発泡スチロールを背中にくくりつけ、その紐を自分の身体に縛りつけて、暗いなかで何時間も救助を待ち続けた。「深い闇の最中に」、「道に迷う人として」、「風に(水に)すさぶ砂漠(洪水)に」、「疲れ果てた心に」なっていたこの家族。やっと3時半頃、ライフ・ボートに救われました。救いに来た消防団員は隣の家の人で、彼は自分の家族を待たせておいて、先に発泡スチロールを付けた子供たち一家を助けてくれた、とのこと。洪水で家を含めて一切を失った人であるにも拘わらず、家族の命が救われたこと、人々の優しさに触れたことの方を敏感に感じ取ったのでしょう。失ったものに対して惜しいとは思わないと言われるのです。闇の中にあって、きらめく星のような人々を見出したのでしょうか、待ちこがれた中で、神のおとずれを見出した故にキリストのおとずれに「メリーメリー クリスマス、ハレルヤ クリスマス 喜びの夜」と涙ながらに歌ったのでしょう。子供が、この体験によって、人を助ける人になるのではないかと思う、と言われたのです。

2005年の土の器
2004年の土の器
2003年の土の器
2002年の土の器
2001年の土の器


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日本聖公会九州教区