2001年12月号

  「それでもクリスマスはやってきます」
 無邪気なメリークリスマスの声ではなく、このようにでもカードに記すしかないような人々がこの世には大勢いる…。クリスマスの意味はやはり十七世紀のドイツ詩人のことばに尽きるであろう『キリスト、ベツレヘムに生まれたもうこと千たびに及ぶとも、キリスト、汝が心の内に生まれたまわずぱ魂はなお、打ち棄てられてあり』これは単なる内心内在のキリストの勧めではない。眼前の人の内に生まれたもうキリストを見ているか、見られるかという事に他ならない。
 改訂古今聖歌集試用版の二〇 一九番うまやのあかり、 ニ〇二四番おねむり愛しの子よ、このニつの歌がこの降臨節降誕節の時期にー人でも多くの人々の唇にのぼるように。人知れぬ呻きを抱えた人、家なき人々、アフガニスタンの山、砂漠にうずくまる人々に慈しみが運ばれますように----。
(C・H・Y)


2001年11月号

  日本の10月8日へと時計の針が回った頃アフガニスタンへの攻撃が始まった。世界で最も貧しい国が重火器兵器の攻撃をうけねばならないのか。なぜなら云々。ナラバなぜ世界最貧国にテロリストがいるのか。なぜなら云々。ナラバなぜアメリカは彼らテロリストを養ったのか。なぜなら云々。ナラバなぜ大国ソ連は二週間の予定で山越え侵略をしたのか。なぜなら云々。世の巷の侃々愕々たる中で私の想いそのままの言葉それは、養老孟司の『実は何も言いたくない気持がある。どこか粛然たる思いがあるからである』アメリカにつくかテロリストにつくか、文明社会への挑戦だ、イスラム征伐の十字軍だ等々。いい加減にしてくれ。我ら地球民の現今の問題は、この冬に飢えと寒さで死にゆく難民とアフガニスタン国民の数を一人でも減らすこと以外に何があるか?
神よ、応えを。(C・H・Y)


2001年10月号

  教会を形成し牧者をたてる教派の中で、牧者が「派遣」されるのか「招聘」されるのかという二つの異なる行き方がある。それぞれに神学と世間的長所短所が勿論あり、絶対的正しさを決める権限はない。しかし私は最近とみに思う。派遣性を受け入れて教会を形成するという営みは牧者、信徒各々にとって極めて「高度な質の高い」精神活動を要求され、人間のいきかたそのものにとっての意味は限りなく深く重い、と。
 自分達が選び招いたのではない者 ―― 限界ある一人の者 ―― を受け入れその者を称賛するのでもなく排斥するのでもなくその者と共にあくまで歩み続ける。誰かを招きかつ首をすげ替えるという「主体性」が比較的簡単な事に比すれば、互いに選び合ったのではない関係の中で互いに生き合う、神の支配を目ざして、という営みの困難さとそして恵み。それが私どもの教会。(C・H・Y)


2001年9月号

  私は夢想する。月に一度すべての教会は礼拝後の活動を全休止しホンモノの安息日に還り、しかし各自家路へと急ぐのでもなくそこに集いし者による「沈黙への沈潜」のときを生きる事ができないだろうかと。たとえば祈祷書の教会問答の答の言葉を「回答」としてではなく、そのことのは一つ一つに永遠に留まり続けるかのように沈潜する。その「沈黙の海」から立ち昇る「わたしのことば」があるとしたら― そのかけがえのないわたしのことばが例えば信徒研修会(九月実施)のような学びの支えをもつとき、すでにそこに自ずと「私の伝道・つまり神の業への参与」は働き始めているであろうと。目に見えるいかなる活発性活動性にまさる「日ごとに新たにされる内なる人(Uコリント4:16)」だけが、「永遠の命に至る水」を湧き出させることができるのだから。教会に安息日を取り戻したい!(C・H・Y)


2001年8月号

  八月は「平和」の季節。六日、九日そして十五日。六日と十五日は教会暦の聖日であるが、聖餐式を行うという以外に日本聖公会全体においてこの三つの記念日はどのように覚えられているのだろうか。私にとってのポイントは三つ。(一)『平和を実現する人々は幸い、その人たちは神の子と呼ばれる』神の子とはいかなる人であるのか神の示された定義。(二)アジアと日本の戦死者のすべてを意味づけなしに、死者を死者としてのみ悼む、という地点に私達日本人は五十余年を経て到達したのであろうか。(三)そこからしてこの時期にかまびすしくなる「靖国問題」の本質とは何なのか。靖国とは戦死者が継続的に産み出されることによってのみ存立することのできる神社であるという事実。これは何教であろうが宗教でなかろうが「正しくまともな」施設か?私達は継続的に戦死者を必要とする施設を必要とするのか?(C・H・Y)


2001年7月号

 「福音伝道の十年」 ― 20世紀最後の10年を『神に属するこの世界に住む人々にキリストを知らしめる』ことが全世界の主教の集まりで決議されたのが13年前。九州教区はその決議に応えてその運動に取り組んだハズですが、その自己評価や如何に?の評価文書が各教会に求められてきました。細かく項目を分けて自己採点させる方法にはさまざまの想いや疑問もあり得ますが、これに直接回答する責任が教会委員だけに求められているのは「惜しい」デス。時折かしばしばか礼拝を共にして下さっている非教会員の方に評価して頂くというのは有益ではありませんか?もしこの欄をお読みになってかつその文書を目にした覚えのない方、ぜひ私にも見せて下さい、私にも評価させて下さい、と牧師や委員に請求して頂きたいものです。自己評価と他者評価は違ってこそ意味を持つのですから。(司祭・吉岡容子)


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