教区報「はばたく」に掲載のコラム

トップページに戻る
最新メッセージ

2026年1月号

 他人から喜ばれれば嬉しい。 こちらも望んで《してあげる》のだ。
ところが善意の陰に、そんな自分に満足しているのを見つけると具合が悪い。
マタイによる福音書6章は誉められる事に対する厳重な注意である。
何と人間は善い事も自分のためにしかできないものなのか ?! 決して他人を陥れたり、声を荒げて怒鳴りつけた記憶はないが、いわゆる《親切》も欺瞞(ぎまん)の皮を被っている場合が多いらしい。
自分が《してあげる》という意識は気付くと心の中心を占めている。
主は「隠れたことを見ておられる」。
「人目につかせない」ようになされたときだけ御心に適う。
《してあげた》自分の受ける感謝などものともしない、自然な善い事がしたい。
マリアやヨセフが御子を産み育み始めるのに、神からの感謝を求めたか?
何も思わず、他人に対してもただ当たり前によい関係を築いていきたいのだ。
この降誕日、子どものように贈り物を願ってもいいだろうか。
自己中心の自分を棄てた新しい自分を!
君原 實(直方)

2025年12月号

 今年最も印象的だったのは、アカデミー賞受賞ドキュメンタリー映画「ノー・アザー・ランド」です。
この映画は、ヨルダン川西岸のマサーフェル・ヤッタでイスラエル軍と入植者の暴力により、家や農地、家族を奪われていくパレスチナ人の姿を生々しく描いています。
ガザだけでなく、西岸地区でもイスラエルによる暴力が増しており、私たちはこの現在進行形の不正義をどう止めるかが問われています。

 米国聖公会は、6月5日のガザ聖公会病院への攻撃を強く非難し、「イスラエル政府に対し、国際人権法の尊重を強く求める」との声明を発表しました。
日本聖公会も映画祭や祈りの会などを開催しています。
でも私たちは、当面の戦闘終結だけでなく、イスラエルによる抑圧からパレスチナ人が解放され、真の平和が実現するよう支援を続ける必要があるでしょう。
「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。」(マタイによる福音書 5:9) 
西﨑 緑(福岡聖パウロ)

2025年11月号

 教区の対面での研修会や委員会が少なくなりズームの活用が主流になっている。
確かに便利で経費も掛からないメリットがある。
しかし委員になれる人が制限されるし、対面のような人と人との交流から生まれる豊かさが無い。
自分にとって対面での委員会や研修会で他教会の素晴らしい信徒を知ることは信仰の励みとなった。
信徒の交流から学ぶ事は大きい。
福岡ベテル教会の壹岐裕志司祭は高齢になられて礼拝の時は身体も傾き、目も瞑られている。
けれど唇が動き祈りを捧げておられる事がわかる。
元気な頃はカンボジアまで学生達を連れて行かれて現地の人々の為に活動された。
現地の子どもの大学の学費を支援された。
壹岐司祭から信徒のあるべき姿を教えられた。
武藤主教は激務の中、福岡パウロ教会まで早朝に行かれて朝の礼拝をされていた。
祝日の礼拝は福岡ベテル教会でしてくださった。
共に祈り、説教を聴くことができた恵みは忘れ難い。
武藤主教から礼拝の大切さを習った。
(馬越隆子・福岡ベテル)

2025年10月号

 今年の夏も、人権問題や平和について学ぶ機会を与えられた。
長崎原爆記念礼拝に参加し、小林聡主教(大阪教区)の説教の中で語られた「神の遺産」という言葉に出あった。
平和は、与えられるものではなく、自らが創りあげていくことだと感じた。
上原主教(沖縄教区)の「戦後80年」と言うが、「戦争は未だに終わっていない」の言葉に衝撃を受けた。
憲法改悪の問題、遠い国で起こっている争い、どれも自分の生活と無関係ではない。自分のあり様を問われた。
また、「ハンセン病問題の全面解決を目指して共に歩む会」が主催する学習会で「新・あつい壁」を視聴した。
あるハンセン病患者が証拠不十分なまま逮捕され、裁判所ではなく療養所で、まともな審議や弁護もないまま判決を受け、人生を奪われた冤罪事件を映画化したものだった。
国家権力が都合よく、弱い立場に置かれた人の「いのち」を奪うことに憤りを感じる。
「神の遺産」を担うことの意義を問い続けたい。
(川﨑祐子・鹿児島)

2025年9月号

 聖歌363番はイエス様の公生涯を簡潔に歌い表す。
「み言葉を私にも聞かせてください」と4節ともこのフレーズで終わる。
「見ないで信じる者は幸い」と主はトマスに言われた。
見ずして信じた人の証しを信じた人の証しを……と繰り返し継承され私達は主へ導かれる。
それでもこの耳で聞ければと、十字架に到るまで同じ時間を生きた人々への羨望(せんぼう)も詠まれているのだろう。
ガリラヤの丘、湖水の高波に揉まれる舟の上で。
ゴルゴタの磔刑(たっけい)の苦しみの中で。
しかし昇天前エマオへ向かう途中、弟子達は道中共にしながらそれが誰であるのかパンを裂かれるまで気付かなかったのだ。
何年前になるだろう。
信仰の浅さに悩んでいた私に五十嵐主教はあの出来事を引用しつつ諭してくださったのだと思い返される。
目に見えずとも、主イエスは常に共に在って歩んでくださっている。
私も既に聞かせていただいているのだ。
あの思い出は二つとない自分いとっての信仰の励ましである。
(君原 實・直方)

2025年8月号

 アメリカ黒人女性の歴史を自分の研究テーマとしている私は、2年ほど前に黒人産婆の歴史に出会った。
彼女らは、奴隷制の時代から黒人のみならず白人の出産にも立ち会ってきた。
産婆は、妊婦のケアをするだけでなく、産後の子育てのアドバイザーでもあった。
病院出産では、痛みをできるだけ早く取り去ることに重点が置かれるが、産婆は出産の痛みを「より良いものを生み出す痛み」として妊婦や家族と分かち合い、最適な「時」を待つ出産を支える。
残念ながら、伝統的な黒人産婆は1970年ころまでに全て廃業してしまうが、彼女らの出産に対する考え方は、人間の命に神の意志が働いていると信じるものだったのではないか。
このことに気づいた時、自分が病院での出産しか考えてこなかったことを悔やんだ。
「子らは主の与えられた嗣業、胎の実は報酬である」という詩篇127篇3~4節の言葉を心に留め、これからも生について考え続けていきたい。
(西﨑 緑・福岡聖パウロ)

2025年7月号

 武藤主教が九州教区を定年退職されて、残り少なくなってきた司祭方のご苦労も想像される。
健康が支えられ御心な牧会がなされる様に祈る日々だ。
各教会の礼拝も聖餐式が少なくなり「み言葉の礼拝」が多くなってきている。
信徒の高齢化などで礼拝出席者が少くなる中、それぞれに工夫して礼拝を捧げていることと思う。
10月13日には教育部主催で島優子司祭の指導の下「み言葉の礼拝」の勉強会が福岡ベテル教会で開催されるので是非参加して学んで欲しい。
皆が集まり学び祈ることで必ず神様は私たちに新たな力を下さる。
4月26日の「主教座聖堂・教区センター・福岡パウロ教会」落成式・聖堂聖別式では久し振りに九州の各教会から多勢の信徒が集まり笹森田鶴管理主教、武藤謙一主教、九州教区の司祭方と共に礼拝を捧げられて感謝だった。
信徒が集まる事の大切さを感じる。
聖公会の礼拝の素晴らしさを再認識した。
「主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である」(ネヘミア記8:10)
(馬越 隆子・福岡ベテル)

2025年6月号

 国連で採択され国際社会が一致団結して2030年の目標達成をめざしてとりくんでいるSDGs。
キーワードは「誰ひとり取り残さない」。
17目標の1番目は、「貧困をなくそう」である。
世界には6人に1人(3億3350万人)の子どもたちが極度に貧しい生活を強いられているとのこと。
日本は、メディアが伝える他国の厳しい状況のようではないが、日々の生きづらさを感じている子どもたちも多くいる。
そのような子どもたちや地域の人に向けた牧会の働きの一つとして、「子ども食堂」を開店している教会もある。
そこに集うボランティアの働きは、神様に喜ばれる働きであると実感する。
他16目標も聖公会の祈りの中に常に位置づけられている。
全ての人の命を守る平和の祈り、地球環境を守る祈り、ジェンダー平等や教育の保障の祈りなど。
復活日を祝し「見ないのに信じる人は幸いである」(ヨハネによる福音書20章29節)のみ言葉と共に新たな歩みにつなげたい。
(川﨑 祐子)

2025年5月号

 今春ハインド協働教会の大斎節には<詩編を味わう>という課題がある。
主題は罪の告解ばかりではないのだが、期節柄神への背きを打ち明ける歌が目についてしまう。
知らずに犯した罪が誰しもある筈だが、大斎始日の51編には<背きの自覚>が読まれていた。
自覚できない背きは罰として後悔もできず、憐みを願いもしないのだ。
既に81を過ぎ、過ちも数知れない身にして、心底背きを悔いた経験は何度あっただろうか。
そして受苦日にはどれを選んでも主イエスの歎願とも言える歌ばかり並んでいる。
つまり私の認識の及ばない背きのため、主は周囲から裏切られ、鞭打たれ、嘲りと激痛の中ゴルゴタを上られたのだ。
御受難のために私は何を捧げよう?
19節によれば「打ち砕かれた霊」が神のお求めの生贄だ。
自ら苦悩に耐えうるかどうか、ギリギリの痛みによって自分の弱さを主にさらけ出す。
この機会に自分の背きを自覚する勇気が少しでも恵まれるよう求めている。
(君原 實・直方)

2025年4月号

 現代社会は、効率性と即時性が重視され、私たちは常に迅速な判断と行動を求められます。
しかし、時には答えのない状況に直面し、すぐに結論を出せないことがあります。
最近、心理職や福祉職などの対人援助専門職の間では、そのような時に性急な判断を避け、不確実性や曖昧さを受け入れる力である「ネガティブ・ケイパビリティ」が注目されています。

 クリスチャンの人生においても、しばしば難しい事態がやってきます。
箴言3:5-8(新共同訳)には、「心を尽くして主に信頼し、自分の分別には頼らず常に主を覚えてあなたの道を歩け。そうすれば主はあなたの道筋をまっすぐにしてくださる。自分自身を知恵ある者と見るな。主を畏れ、悪を避けよ。そうすれば、あなたの筋肉は柔軟になり、あなたの骨は潤されるであろう」と書かれています。
私たちも、神を信じて待つことを大切にし、困難の中にあっても希望をつないで生きていきたいと思います。
(西﨑 緑・福岡聖パウロ)

2025年3月号

 神様は私達一人ひとりと向き合って下さるのだけれども聖書を読む時にイエスと関わる人々の一人ひとりの個性を思い巡らしながら読む。
イエスとペテロ、イエスとパウロ、そして私が最も興味深いのはイエスとヨハネの関係。
聖書の中で心惹かれるみ言葉は人それぞれに沢山あると思うが私は詩的な表現が多いヨハネ福音書の言葉が好きだ。
「初めに言葉があった。言葉は神と共にあった。言葉は神であった・・」
そして特にヨハネの手紙一1章
「初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、命の言について。・・」という箇所では、圧倒されて思考が止まってしまう。
この言葉の中に人であり神であったイエスの存在を感じる。
手で触れるところにイエスがいる!
ヨハネのようにトマスのように病を癒やされた女のように私もイエス様に触れたかったなあと思う。
この箇所を読むたびに喜びに満ち溢れる。
(馬越 隆子)

2025年2月号

 2025年1月1日、今年も主イエス命名の日を日の出とともに迎えることができた。
感謝!世界に目を向けるとき、私の感じる安心・安全を確保できない人が数えきれないほどいることに心を痛める。
12月のある日、繁華街を歩いていると、青年が私に、携帯カイロのような物を差し出してきた。
「これは何だと思うか」の問いに、それに触れてみた。
フカフカしていて柔らかい。
青年は、これが難民への支援物資(食料)であることを伝えた。
栄養価の高い粉末が入っているとのこと。
続けて、世界に難民は日本の人口ほどもいると伝えた。
紛争や自然災害により、故郷を追われ、安心して過ごせる場所がない人がこんなにも多くいることに驚いた。
11月末の平和ための祈りの集いで、現地から大澤みずほさんが語った「ガザの現状と支援活動」のことが重なった。
多くの尊い命が奪われ、自分らしく生きる道が閉ざされている人がいる。主よ、平安をお与えください。
(川﨑 祐子・鹿児島)

2025年1月号

 聖書との出逢いは様々である、分かり切った事だが<出逢い>と自覚せぬ<出逢い>もある。
飯塚教会ありし頃、家庭集会で何気なく聞こえ記憶に残る幾つかの喩え話。約2000年の昔、現代に生きる者ですら考えつかない価値の転換が語られている。
ぼんやり聞いていた割にそれだけには何らかの衝撃を受けた。
「葡萄園の使用人」は勤勉な者が多く報酬を受けるという[当たり前]を払い退け、無視された苦しみに広場で耐えた者を労う。
「よきサマリア人」は読み手にすら挑戦する。
あなたが隣り人になれ。全く素性の知れない他人を介抱し、療養させる宿代までも負担する。
意識が戻った怪我人がサマリア人に感謝する保証はなく、確実なのはサマリア人が愛を行い、神の愛に働かされた祝福された異邦人であった事だけである。
異邦人(異教徒)であった自分の心にいつまでも鳴り響いている。
神の御稜威に圧され、息絶える日まで僅かでも愛の非常識を貫く人生でありたい。

君原 實(直方)

 

荒野の声(本年度)

2024年の荒野の声
2023年の荒野の声
2022年の荒野の声
2021年の荒野の声
2020年の荒野の声
2019年の荒野の声
2018年の荒野の声
2017年の荒野の声
2016年の荒野の声
2015年の荒野の声
2014年の荒野の声
2013年の荒野の声

2012年の荒野の声

2011年の荒野の声
2010年の荒野の声

2009年の荒野の声
2008年の荒野の声
2007年の荒野の声
2006年の荒野の声
2005年の荒野の声
2004年の荒野の声
2003年の荒野の声
2002年の荒野の声
2001年の荒野の声


Send mail to WebmasterE-mail: d-kyushu@ymt.bbiq.jp


日本聖公会九州教区