地の塩、世の光

教区報に毎月掲載される マルコ 柴本孝夫 主教のメッセージ
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最新メッセージ

2026年1月号

 なぜ めぐり逢うのかを 私たちは なにも知らない
 いつ めぐり逢うのかを 私たちは いつも知らない
これは中島みゆきさんのヒット曲『糸』の歌い出しの言葉です。
この後、一本の糸のような私がどんな人生をどんな思いで生きてきたかがうまく表現され、そして、
 縦の糸はあなた 横の糸は私 逢うべき糸に 出会えることを 人は仕合わせと呼びます

と締め括られます。これを聴いていると、しみじみいろいろな情景が頭に浮かんできます。
これはもっぱら恋の歌なのですが、しかし私たちが日々経験する様々な出会いも重なってくるように感じます。

 昨年は二人の教役者の先輩を神さまの許にお送りしました。
毎月主教座聖堂にて教区教役者逝去記念聖餐式を行い、その月に召された教役者のお名前を読み上げ、祈りをささげます。
この名簿に新たにお二人の名前が加わりました。

以前は、私にとって直接お会いしたことがない遠い関係の先輩方が多かったのですが、当然のことながら、だんだんと直接お世話になった先輩方のお名前が並ぶようになりました。
これら一つ一つが逢うべき(神さまが用意してくださった)糸だったに違いないと感じます。

 それぞれ、一人の牧師また教役者として自らの使命とどう向き合いどう取り組んできたのか、言葉と姿をもって示してくださいました。
しかし不思議なことに(失礼かもしれませんが)、熱心に教えてくださったであろうことはほとんど記憶に残らず、何気ない一言やふるまいが私の心に残り続けています。

ということは、私についてもきっと同じことが起こるのでは。
うーむ、大丈夫か…。
その人が伝えようと意識したことより、素の姿、何気ない一言や生き様こそが残っていくのです。

とにかく、糸のような私たちが、かつてまた日々与えられる出逢いの仕合せをかみしめつつ、新しい年を歩みはじめたいと思います。


2025年12月号

 一つのことになかなか集中できないのが悩みです。
なので、一点集中で力を発揮する人を見るととても羨ましくなります。

 子どもの頃から鼻が悪く、いつの間にか口を開けて過ごしていました。
よく鼻水が出たり詰まったり、ティッシュを手放せず、思いっきりくしゃみをして同級生に笑われることもしばしばでした。

鼻が悪い人は集中力が弱い、と言われていましたので、まさにそのせいだとずっと思ってきました。
その後、鼻の調子は改善されたようですが、集中力の弱さは引きずったままです。

 朝祈るために礼拝堂に行きます。
そして短い時間ですが、静かに詩編を唱え聖書を読み、祈りをささげます。
まだ武藤主教がおられた頃はよく二人で礼拝をしましたが、今はほとんど一人で過ごす時間となりました。

正面の十字架とステンドグラスを見つめながら過ごしていると心が落ち着くのですが、他方、いろんな思いが頭の中を駆け巡ることがあります。
頭では、聖書や祈りに集中したいと思っているのですが、私の「意識」にはまるで羽が付いているようで、時間や空間を超えて飛び回っているのが分かります。
まさにパウロが言っている「自分の心を制御できない」状態です。

先日新聞に、ちょうどこんな状態に関する研究の記事が載せられていました。
何かをしている時につい他のことを考えることを「マインドワンダリング」と呼ぶそうです。
言葉の響きはなかなか楽しそうですが、過去への後悔や将来への取り越し苦労が増えている影響による…とか。
一方で、マインドワンダリングをする人のほうがクリエイティビティー(創造性)が高い、という研究結果がある、とも書かれていました。

弱点のようで、違う角度で見れば長所ともなりえる。
時々そんなことがあります。私は自分自身の、言わばこの「マインドワンダリング力」を何とか活かせないかと思っています。

2025年11月号

 日々さまざまなニュースが飛び込んできますが、このニュースという言葉が、じつは東西南北(順が異なりますが)の頭文字からできているということは意味深いと思います。
四方から伝わってくることが、まさにニュースということでしょうか。
それから、ネットワークという言葉も気になります。
これは「網状の構造を意味し、情報やデータ、人と人とのつながりを表す」と説明されます。

 先日、大韓聖公会釜山教区をお訪ねし、朴東信主教、主教座聖堂主任司祭の司空(さごん)司祭、総務部長の李信孝(いしんひょ)司祭をはじめ釜山教区の皆さんに迎えられ、貴重な出会いと交わり、学びの時を過ごしてきました。
韓国語はアンニョンハシムニカ、カムサハムニダ、ドラマで覚えたケンチャナ…くらいしかわからず英語も乏しい私は、もっぱら李浩平司祭、朴銀英さんに助けられてのコミュニケーションで、またも言葉の大切さを痛感しました。
でもその分、よく見て、聞いて、触って、さらに味わって過ごすことを意識しました。

 印象深い体験はいくつも与えられましたが、あえて一つだけ挙げれば、それは礼拝の際に朴主教から式服の取り扱いについて習ったことです。
ほぼ同世代ながら主教としてもうベテランの朴主教が、按手されてわずか二ヶ月の私に、それこそ手を取り足を取り伝授してくださいました。
さらに礼拝後には、たたみ方、しまい方まで教えてくださいました。

これに象徴されるように、いろいろと手厚いおもてなしをいただき、主目的である協働教区協約手続きを無事に終えることができました。
教会の強みは、まさに東西南北に広がる世界にネットワークを持っていることだと実感しました。
単なる情報のやりとりでなく、私たちは人同士の豊かなつながりを持っています。
より多くの信徒や教役者たちが直接釜山教区の皆さんと出会い、ともに肩を並べて、大切な宣教のために働いていけるようにと願っています。

2025年10月号

 猛暑、酷暑、こんな言葉を何度口にしたことでしょう。今夏は皆さんも暑さばかりが気になる毎日だったのではないでしょうか?

そんな中ではありましたが、私は今年も沖縄へ行き、続いて広島、長崎で行われた平和礼拝およびプログラムに参加しました。
そこで、平和の実現を願う祈りや思い、そして大切な言葉に触れる時を過ごしてきました。
今まさに戦争紛争が渦まく世界にあって、それぞれの地で教会の使命を表す、ますます重要な取り組みであったと思っています。

 しばらく前に心に引っかかったのは、アウシュヴィッツにまつわる新聞記事でした。
それは広大なアウシュヴィッツ強制収容所跡に隣接する大きな家の話です。
この家は強制収容所の所長ルドルフ・ヘスが暮らしたところです。
彼は妻と5人の子どもたちと収容所の隣で暮らし、1947年4月、すぐ近くの焼却炉の横で処刑されました。
後に『関心領域』と題された映画では、この家が舞台となっています。

 ここに、ヘスの妻へートビィヒは庭で美しい花を育て、子どもたちをプールで遊ばせている絵に描いたような豊かな暮らしがありました。
すぐ隣の収容所からは昼夜を問わず人の叫び声や銃声、焼却炉が稼働する音が低音で響いていました。
しかし、一家にとっての「関心領域」は家の中のみで、その外にはまったく興味を抱かなかった。
これが映画のタイトルの由来だそうです。
この話を読んで私はゾッとしました。
時代や地域が違っても、私たちももしかすると、すぐ隣で起きている重大な苦しみや悲しみに背を向けてしまってはいないか。
そして一見、幸せに、満足に過ごしている、そんなことがあるのではないかと想像しました。
これは愛をもって他者の命を支えられた主イエスの生き方とは異なります。決して、狭い自分だけの幸せで満足することなく、日々まわりの人たちや遠い人たちにも心を向けたいものです。

2025年9月号

 この欄を新たに「地の塩、世の光」としましたが、前タイトル「目を上げて」の言葉を思わされる最近の体験をお伝えしたいと思います。

今夏、長くお世話になったお二人の方の葬儀に携わりました。
私は常々牧師の最も重要な働きの一つは葬儀に関わることだと思っています。
「主が与え、主が取られる。主のみ名はほむべきかな」。
私たちは神さまから命を与えられ、神さまが命を引き取られる日までそれぞれの人生を歩みます。
その人生の締め括りである葬儀に携わることは牧師の重大な使命であり大きな恵みです。
そして今回のお二人に共通していたのは、まさに「目を上げて」過ごされた方たちだった、ということです。

一人の方は、結婚して間もなく次々に子どもたちを授かり、関東から未知の土地・九州へと移り住み懸命に暮らしを整えられました。
不慣れで、かつ身近に友人知人もいない中、教会を頼りに過ごされました。
それでも孤独や不安を感じる時は、聖歌「山辺に向かいてわれ」を口ずさみ、実際に山の方を見上げつつ祈り過ごされたとのこと。
辛い時にしっかり神さまに信頼して歩まれた、その生き様に心打たれました。

もう一人の方は、幼い頃から体が麻痺し、さらに40代頃からは施設、病院での生活を続けてこられました。
私も20年以上前からの関わりでしたが、いつも天井を見つめながら過ごしておられました。
ずっと天井を眺める日々はいったいどんな気持ちだったのか。
しかし彼女はいつも笑顔を絶やさない人でした。多くの人が不平不満にとらわれる中、いつもニコニコと天井を見上げて寝ておられました。
病院のスタッフも、そして見舞いに行く私もその笑顔に癒されました。
与えられた人生をいったいどう生きるのか。大切な姿勢を示される関わりでした。
お二人の魂の平安を祈ると共に、この豊かな出会いと交わり与えてくださった主に感謝いたします。

2025年8月号

 皆さま、主教按手式および教区主教就任式に際しましては、ともに神さまに熱心に祈りお支えいただき、あらためて深くお礼申し上げます。

これからこの欄を執筆するにあたり、まず自己紹介をさせていただきます。

 私は1965年2月、福岡県久留米市に生まれ、今年でちょうど還暦となりました。
入信のきっかけは久留米聖公教会付属久留米天使幼稚園への入園でした。いつも出かける先が教会となり、青年時代はさらに教会にどっぷり浸かり、時々自宅へ帰るという状況にもなりました。

 大学卒業後聖公会神学院へ。九州教区へ戻ってからは、延岡聖ステパノ教会を皮切りに8つの教会に居住し勤務。
またその他の教会の管理牧師として兼務もしました。
この間結婚しおよそ35年間働いてきました。
教区では宣教局の各役割、管区では正義と平和委員など担って参りました。しかしとくに誇れるものもなく坦々と過ごしてきました。

そんな私が、3月1日の主教選挙により選ばれ、諸手続きを経て主教被選者とされ約4ヶ月間を過ごしました。
だんだん迫りくる按手の日におそれを抱き準備をしなければと焦りながら過ごしましたが、いつも通り心の整理も上手くすることができないまま当日を迎えることとなりました。

そんな中取り組んだのは、あまりに基本的なことながら按手式文をじっくり読むこと、そして当日の聖書日課を丁寧に味わうことでした。
とくに心に残ったのは、まさに按手の際に首座主教が祈られる「僕(しもべ)にへりくだりの心を与え、傷つけるためではなくいやすために、倒すためではなく建てるために、その権威を用いさせてください」の言葉です。
主教の姿勢と使命を教えられます。

 皆さま、この土の器が主によって清められ用いられますように、これからもどうぞお支えください。


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