2008年バックナンバー

2008年12月号

 「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は「神が我々と共におられる」という意味である。(マタイ1章23節)

イエス様が誕生されてイエスと命名されましたが、もう一つの名前も命名されていました。インマヌエルという名前です。「神がわたしたちと共にいてくださる。」という福音のメッセージが名前となっています。

神がわたしたちと共にいてくださる。これを福音として心から受け止めることができるのは自分の努力にはよらず、神様の導きによって可能となることなのでしょう。

福音として受け止められない場合があっても、それは、信仰が浅いからとか、祈りが足りないからではなく、まだ、その時ではないからと言えるのではないでしょうか。

その時が来て欲しい、主イエスに会いたいと願いますが、多くの場合、その時は困難な時が多いので、イエスに会いたいと願うことには少しためらいを感じます。しかし、神様が共にいてくださったとの信仰体験を聞く時には大きな励ましを与えられます。

詩編23編の信仰告白には心惹かれます。特に4節の言葉に。「死の陰の谷を行くときも、わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。」

神様が共にいてくださっても、今の逆境が取り去られる訳ではありません。死の陰の谷を歩む人は自分の道を歩まねばなりません。しかし、共にいてくださる方がいると実感できる時には今の現実を受け止めて前に進む意欲が与えられているようです。

先日、わたしの大切な家族(妹)が亡くなりました。6年間の闘病生活でした。最期の頃は、衰弱して顔の筋肉も動かせないので能面のようになり、ただ「ありがとう」、「水」、「もっと」、「愛してる」という簡単な言葉だけでの対話でした。夫が毎日病床に通い、夫の都合が悪ければ誰かが側にいました。ですから安心して「死の陰の谷を行くことができた」のでしょう。

側にいて欲しい人が側にいないと分かると不安で、不満を表します。でも、いてくれさえすればそれで大丈夫。

妹の旅立ちの姿に触れながら人は弱い、しかし死をも受け止めることができる程に強い、とも知らされました。
そのような体験の中で、人によっては主イエスに出会うこともできるのでしょう。

もう一人のわたしの大切な人が、緩和(ホスピス)病棟に入院しています。彼も、衰弱して能面のようになっており、感情を面に現わすことがでない病状になっています。彼は第一回目の手術の直前、自宅で洗礼を受け、その足で病院に入院しました。一年後に再発して、緩和病棟に入ることになりました。最初の日に医師、看護師、ケースワーカーに囲まれて挨拶を受けた際に、彼は皆に言ったそうです。「わたしは洗礼を受けて平安です。」彼の信仰告白はどのように皆に受け止められたのか、知りたいところです。

彼は「今、クリスマスの夢を見た」と妻に伝えたそうです。妻は「そうイエスさまと天使がでてきたの」と聞きますと「うん」と。「そう、良かったわね。イエス様があなたを守ってくださるのよ」と妻が言いますと「うん」と答えたそうです。

妻は安心したそうです。彼が神様に守られて天国に行くと思ったら、あまりにも嬉しくて、と知らせてきました。
神の子イエスがわたしたしの所に来てくださったクリスマスに感謝です。

2008年11月号

 「わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。」(フィリピ3:8)

この聖句はパウロがキリスト・イエスを人々に伝える故に捉えられて獄に繋がれている時に書いた手紙の一部です。今日にでも殺されるかもしれない中で、パウロは「わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさ」と証して、さらに今まで豊にされていたと思っていた事柄を 「キリストゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。」と告白しているのです。

ランベス会議には世界の様々な地域の主教たちが集まりましたが、日本と同じようにクリスチャンが少数である国の主教たちもいました。
この人たちの証はまさに獄に繋がれているパウロと同じような証でした。
パキスタンではクリスチャン故に、就職が難しく、公的援助が与えられず、また伝道が禁止されているとのこと。その様な中でキリストを信じる生き方にパウロと同じ姿が見えてきます。

わたしと同じ御言葉を分かち合うグループには西アフリカの主教がいました。彼はイスラム教圏にあってキリストの福音を伝え広めて行くことの覚悟と困難を、肩を張らずに普通のこととしてサラッと話していました。

わたしが彼に「クリスチャンとして生きて行く上で困難な体験をすることがありますか。」と尋ねた時に、彼は「しばしば危険に遭っています。」と言われたのです。その場に居合わせた主教たちはこの応えに圧倒されました。困難に圧倒されたというよりも、パウロが証した同じ言葉を西アフリカの主教から聞いた、と言う感動でした。

わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさを、わたしたちも、今一度思い巡らしてみましょう。

2008年10月号

「神の霊が水の面に」(主教ガブリエル五十嵐正司)
信頼して話をし、信頼して話を聴く。この姿勢を持っての対話の中から、更に信頼関係が深められ主にある仲間、聖徒の交わりを信じる思いが今回のランベス会議において強められました。
この様に断定的に言ってしまうことに少し躊躇はありますが、幾人かの主教の思いも同じでしたので励まされて書いています。

イギリスに到着した始めの一週間はバスク司祭が働くイーリー教区に招かれました。ランベス会議が終わり、帰国して福岡の主教館に帰りましたら、同教区主教のアンソニー主教から次の様なメールが送られて来ました。「今回の会議は極めて大きな成功であったと思い感謝です。」

8月28日に送られてきましたカンタベリー大主教の各主教への挨拶にも、次のように述べられていました。「多くの人々が期待した以上に極めて良いレベルでの成功であったと思える。」
世界の聖公会が分裂している状況の中で、何とかして一致を保とうとする主教たちの熱意と祈りと行動はランベス会議の各レベルに見ることができましたし、聖霊がわたしたちを導き、支えてくださったとの思いは多くの人が述べているところです。次の聖句が思い浮かびます。「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、 神の霊が水の面を動いていた。」(創世記1章2節)

同会議には650人程の主教が参加しましたが、反対故に参加しなかった主教たちが150人程いるとのことです。
顔と顔を会わせて毎日キリストの御言を聴き、思いを分かち合う中で産まれた信頼感。これを紙に書いた言葉、メールのやりとりで産み出すのは難しいこと。同会議の体験を共有しなかった主教たちと、思い込みによらず対話することが今、求められています。

主よお導きをお与えください。

「熱い心のランベス会議」(ルイーズ五十嵐純子)

主教の連れ合いの集まりは、午前中は、「人が共に生きる事」をテーマにした全体会と「ヨハネの福音書」を共に味わうスモールグループ、午後は十項目位あるセッションの中から選択する学びがありました。
その他に、主教と一緒の聖餐式、夕の礼拝、夜の全体会があり、細心に配慮されたスケジュールで、充実した毎日でした。

連れ合い達の会場は男性五人を含めて見かけだけでも服装、体型、態度、言葉が違う人々が、違った文化や自然を背負って世界中から集まっているのですから、地球が一つに凝縮されているような賑やかさでした。
しかし、各国の人が国の様子や心の思いを話されるのを聞くと、置かれている状況の違いに考え込みます。環境の差、貧富の差、安全の差、言論の自由の差、社会問題の差、男女の働きの差などがクローズアップされます。  
パキスタンの人は、イスラム国のクリスチャンの苦しさを話されました。信仰故に仕事がなく、金銭的援助も政府から受けられない。宣教する事もできないというのです。
「貴方の国では聖書の話をする事は許されていますか?」とクリスチャンが少数の国同士として、何度もきかれました。

ある人が、主教が何日もかけて歩いて巡回され留守がちで、家族は寂しいと話されたり、環境問題がテーマで、水を節約する話をしていると、飲む水が無く雨が降るまで待っている人が同じテーブルにいます。部族間の争いを女の手で阻止した、勇敢な人もいます。

目の前にいる、私と同じに見える人が、それぞれの場に戻れば違う現実があるのです。
連れ合い達は共感するばかりでなく、お互いの考えの深い溝にも気づきました。それにも関わらず、笑顔で挨拶し、信仰による篤い想いを共有し、抱き合って別れるほど親しくなりました。

多くの人の熱い心に出会い、かけがえのない貴重な時を過しました。

2008年9月号

 全世界の聖公会主教たちが10年振りに英国のカンタベリーに集まりランベス会議が行われました。毎日の聖餐式、黙想、キリストの御言の分かち合いが日課になっています。それに引き続き様々な課題が協議されます。
聖餐式も各国聖公会が分担して礼拝を行いますので、礼拝に参加し、目にして、その多様さには驚くばかりでした。
キューバ聖公会の礼拝では司式者もサーバーも聖歌を歌い手を鳴らし、踊りながら礼拝堂の入口から祭壇に近付いて行くのです。
ブラジル聖公会も手を打ち鳴らしつつ聖歌を歌い、身体を動かしながら主を讃美するのです。パンとぶどう酒が聖別された直後にはハレルヤを何度も歌い、手をたたき、最後のアーメンでは両手を高く上げて主を讃美するのです。とにかく喜びを表現する聖餐式でした。
日本聖公会では「キリストは死に、キリストは甦り、キリストは再び来られます」と唱えて、恭しく、荘厳な思いになるところで、キューバ、ブラジルでは歓喜の声を挙げるのです。
「荘厳」と云えばカンタベリー大聖堂の礼拝は荘厳そのものでした。少年合唱団の澄んだ歌声が大聖堂の高い屋根にこだましてきれいな礼拝、荘厳な礼拝でした。
また多様と云えば、米国聖公会は多様でした。世界の各地から移住した人々が米国を形成しているのですから米国は世界の縮図とも言えます。
この様な多様な中でキリストの御言を聞く時に同じ受け止め方になれないことは当然なのかもしれません。しかし受け止め難い程の多様さはキリストの恵みの多様さ、深さを現わしていると見ることもできます。今、混乱する程の多様さの中で全聖公会は、新たな福音を探し求めて謙虚にキリストに聴く作業をしているランベス会議です。

2008年8月号

九州教区婦人会総会が3年ぶりに開催されました。6月27日、鹿児島復活教会を会場にして午後1時半に始まりました。 
開会礼拝で歌われた聖歌の力強かったこと。出席者が50人前後とは思えないような、霊的に一つと成って、喜びと希望が現われる礼拝でした。
総会の議場では、会議になれていない様子が見えていましたが、代議員たちの建設的な発想の中で良かれと思えるように考え、修正しつつ議事が進められていました。善意に包まれている中での総会であったと言って良いかも知れません。
5月に開催されました日本聖公会総会も同じ様に気持ちの良い会議でした。教区制改革委員会が提出した2つの議案は微妙な内容が含まれているものでした。1つの議案は「現在の日本聖公会11教区を、複数の宣教協働ブロックに編成し、2総会期(4年間)取り組む件」です。これまでの教区中心の活動から、積極的に他の教区と共に活動してみよう、との新しい試みです。
もう1つの議案は「日本聖公会『教役者標準給表』の作成並びに『教役者給与支援システム』の実施に向けて、作業する準備委員会設置の件」です。
具体的、実務的にどうなのかとの不安な状況が予測されつつも、来年、日本聖公会宣教150年を迎える時にあたり、日本聖公会が一つとなって、新たに宣教へ向かって行こうとの枠組み模索の動きでした。
思い浮かびますのが使徒言行録第2章44節以下の言葉です。「信者たちは皆一つになって、すべてのものを共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて皆がそれを分け合った。そして毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を讃美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。

≪番外編≫ランベス会議って、何?

これは全世界の聖公会の主教が集まって開催されます会議で、10年に一度ロンドンのランベス宮殿で開催されたところからこの名称が付けられています。
聖公会が世界に伝え広められて行った時期は英国が七つの海を支配したと言われる植民地時代のことです。植民地を運営するために海外に英国人が居住することとなり、彼らへの牧会が必要となりました。また植民地とされて新たな国王の臣民となった非キリスト教徒への伝道も必要となり徐々に世界へ聖公会の教会が広められて行きました。米国、カナダ、西インド諸島へ。
19世紀にはインド、アフリカ、オーストラリア、アジア、日本にまで伝道されるようになります。文化の違う中で教会は多様な対応を求められ、また聖公会のアイデンティティ(寄って立つ原点とも言えるでしょうか)を確認する必要が生じました。第一回会議は1867年78名の主教が集まって開催されています。
聖公会の直面する諸問題について協議し、決議を行います。然しこの決議は各国聖公会に対して拘束力を持っていませんが、聖公会の最高権威を持った決議として尊重され、各国聖公会で可能な対応をいたします。
この度、直面している課題は「聖公会の一致」です。アメリカ聖公会が同性愛者を主教に按手し、カナダ聖公会のある教会が同性愛者の結婚(?)を祝福する礼拝を行ったことから、アメリカ、カナダ両聖公会を全聖公会から除籍せよ、との激しい反発が起きて居ます。
特に、イスラム教文化圏(同性愛は犯罪と見做される)中でクリスチャンとして生きるアジア、アフリカ聖公会からの反発は特別です。

今回は顔と顔を合わせての話し合い、相互信頼を強め、一致を保つ試みが大きな課題となっています。

2008年6月号

管区主催の人権担当者協議会が草津の栗生楽泉園で4月に開催されました。
JRを降りてからバスに乗り継ぎ、坂を上って行きますと、山が見えてきました。道路の両側は若葉の出たばかりの木々が連なり、覆いかぶさりそれは奇麗なものでした。更に進みますと雪に覆われた白根山が見えて、30分のドライブはすばらしいものでした。
しかし、この同じ道のりをハンセン病ゆえに楽泉園に入所するために上って行った人々はどのような思いであったのか。
入所者の谺(こだま)雄二氏からハンセン病者が如何に無慈悲に扱われてきたかを歴史的に話してもらいました。国策として病者を強制収容することとなった時、病者は手錠をはめられ、腰縄で結わえられて連行されたそうです。
国によって、社会によって差別され、宗教者までもが差別を維持する役割を担っていたことを知らされました。
人の尊厳はまったく考慮せず、社会との接触を断ち、消えていくことをただ待っている。そのように人を追いやったのは共に生きるべき仲間、わたしであることを思うと
その人々と神の前に恐れ慄く思いです。
詩編22編に記されている苦難の僕が、「なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず、呻きも言葉も聞いてくださらないのか。」の言葉が思い浮かびます。
楽泉園の入所者との交わりによって人の悲しみ、絶望、罪、過ちの深さを思い巡らしました。
しかし、同園にある聖慰主教会の信徒の言葉は励ましとなりました。
「ここに研修に来る人々はどうも批判的に言う人が多い。しかし、信仰を持ってここにいる皆さんの姿を見て安心しました。」人ごとでは無く、多少なりとも自分ごととする姿を見ての言葉だったのかと、想像しています。

2008年5月号

「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方はここにはおられない。復活なさったのだ。」(ルカ24章5−6)

 3月6日に横浜教区の遠藤哲主教が逝去されました。
主教に選出された時から病と道連れの方でした。しかし、病気かと思うと決してその様ではない意欲的な主教としての働きが見られました。広い教区の各地を車で移動して主教巡杖を楽しみ、逝去2週間前にも信徒が堅信式を待っているからと教会に出かけられ、堅信式を無事に済ませて、良かった、と言われたそうです。 
わたしが久保淵主教(元九州教区主教)の葬儀の様子を話しましたところ、心に響くものがあったのでしょう。わたしも、その様な葬儀にしたい、と感激したように言われました。
旅立つ者に人々の注目が集まるのではなく、旅立つ者と共に会葬の人々が主なる神様に全くの信頼と感謝の祈りを捧げる。ですから旅立つ者がクローズアップされるような写真は中央に置かない。旅立つ者を花で飾ったりしない。
その通りに礼拝堂に遠藤主教の棺は置かれていました。写真は棺の前には置かれず、花は左右の隅に置かれた写真を少し飾る程度に置かれていました。
遺族挨拶で遠藤主教のお兄様が、棺は開けないようにと遠藤主教から言われた、と話されました。そして引用された聖句がルカの言葉でした。
復活信仰を確かに持っているわたしたちは、死者の姿を見て、嘆き悲しみにとらわれてしまわないように。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方はここにおられない。復活なさったのだ。」永遠の命に生きる遠藤主教に主の祝福を祈ります。

2008年4月号

2月の主教会は和歌山県の紀伊田辺にあります高齢者施設「愛の園」で開催されました。梅で知られた地域で、ちょうど花の季節でしたので白い花の絨毯でした。愛の園は豊かな自然の中にある施設で、昨年新築し、引越ししたばかでした。明るい、広い空間に生活する人々の顔は奇麗でした。
施設見学でお風呂を見せてもらいました。風呂に入る人はキャスターに寝たままの姿で浴室に入って行きます。そのキャスターが浴槽の上まで着きますと、浴槽全体が持ち上がってきます。
わたしはその説明を聞きました時に、目を奪われる程の関心を持ちました。風呂が下から上がってくる。
そのとき思い浮かびましたのはコペルニックス的転回でした。地球を中心にして天体が動いているのではない、太陽を中心にして地球が動いている。これはコペルニックスと同時代の人々にとっては途轍もない驚きであったことでしょう。
驚きと喜び。そして新たな歩みが始まりました。
その様な驚きをもった気付きと感謝の思いは、イエスの言葉を初めに聴いた人々にもあったのではないでしょうか。
「貧しい人々は幸いである(祝福されている)。」とイエスは宣言されました。祝福から見放されていると思っている人々にとっては、それは驚きであり喜びの言葉だったのではないでしょうか。
次の言葉も思い出します。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。」(ヨハネ15:16)
神に選ばれる自分ではないと自覚する者にとっては受け止めかねる言葉です。しかし「恐れるな、虫けらのようなヤコブ。」「あなたによってわたしの輝きは現れる。」とのイザヤの言葉を謙虚に聴く必要があるのではないかと思いました。

2008年3月号

わたしは中学生の頃、東京タワーが建てられる様子を見ていました。大きなコンクリートの塊が造られ、その上に鉄柱が立ち始め、だんだんと鉄柱は高くなっていきました。ある人がそれは「Always三丁目の夕日ですね」と言われたので、早速、Alwaysを観てみました。懐かしい都電を見ながら時間がゆったり流れていた頃の六本木を思い起こしました。道端に流れる水辺にいた沢ガニや、くっきり見えていた富士山を思い浮かべました。その頃の印象的な光景に聖公会に関わることも一つありました。
六本木の都電の停留所を歩いていた、首に白いカラーをまきつけ、赤いシャツを着ている人でした。教会のことを何も知らないわたしでしたが何故か、その人をキリスト教聖職と思い、中学生のわたしが、不遜にも「盲信の輩よ」と蔑む目でその人を見ていたのです。 
宗教に対する無理解、
無関心、不信感は昔から中学生にまでもあったのでしょうか。
日本聖公会の初代教会時代には、記録によりますと宣教師の苦労は大きなものでした。人々の無関心と蔑み、さらには敵対心の中での宣教でした。
禁教の高札撤廃は1873年(明治6年)ですが基督教が宗教と認められたのは1899年内務省令第41号によってでした。「この間長崎を基地とし九州各地の伝道に宣教師、伝道師が続々と出張し、派遣されたのである。その教会形成の過程を見ると、今日我々の想像を遙かに越えて、基督教に対する不信、不自由と戦ったのであって、その十字架は実に重かった。」長崎聖公会略史(発行:長崎聖三一教会)の以上の記録を読む時に、先達の苦労と熱意、祈りを思い巡らします。
来年、宣教150年目を迎えるに際し、わたしたちも先達の歩みを共に歩み続けたいと願いました。

2008年2月号

主イエスのご降誕に感謝する礼拝を、この度は、長崎聖三一教会と宮崎聖三一教会で行うことができました。
クリスマスには礼拝に出席すると決めている人、家族の招きの声に従って教会に来た人、友達に声を掛けられて教会に来た人など、さまざまな方法で招かれて教会で礼拝を行うことができました。
わたしは嬉しくなりまして、特に、高校生が友達を連れてきた姿を見まして「小さな伝道師」と言ってしまいました。 クリスマスは嬉しい時、 良き時、人を招きたくなる程に良き時。その様に 思っているので、人に声をかけることができたのでしょう。自分の教会に人を招くことができる人は幸いな人です。
確信を持って人に声をかけることができる伝道師。わたしがこの言葉で思い起こします人は洪恒太郎司祭です。
キリスト教の伝道をして、捕縛されることは無くなったとは言え、まだキリスト教についての偏見が甚だしい時期でした。
伝道説教をすれば人々は眉をひそめて、また蔑みのまなこで見ていたことでしょう。ある夜、教会で伝道説教をしていたとき、夜陰に紛れて教会の外から罵声が聞こえてきたそうです。洪司祭は罵声が聞こえたとは即ち、そこに人がいるしるし、と知って更に励まされて、その方に向って説教をしたとのことです。
キリストの福音がまことにわたしたちの光であり、命であり、わたしたち人間が歩むべき道であると確信しているからなのでしょう。伝えずにはおられないとの洪司祭の篤い思いを知らされる出来事でした。
クリスマスに友達を招いた高校生を「小さな伝道師」と言いましたが、わたしたち一人ひとりもあつい思いをもって人を招く「小さな伝道師」でありたい者です。


2007年の土の器
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2002年の土の器
2001年の土の器

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日本聖公会九州教区