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教区報に毎月掲載されるルカ武藤謙一主教のメッセージ
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2020年バックナンバー

2020年12月号

 十月二十七日から日本聖公会第六十五(定期)総会が管区事務所と各教区をオンラインで結んで開催されました。
二日目の夕食後、首座主教選挙、常議員選挙が行われ、首座主教にわたしが選出されました。

 常議員選挙になってから、信徒代議員の方が「なんだかドキドキしてきた」と言われ、さかんにため息をつかれます。
それを聞いていてわたし自身もだんだんと不安や恐れが大きくなってきて、議場の椅子から立ち上がって、ホールの扉を開けて逃げ出したいような気持ちになってきました。
選挙が終わってその日の議事は終了しましたが、わたしの動揺は収まりません。
すると牛島幹夫司祭が、すぐにわたしの側に来られて「皆さん、武藤主教のためにお祈りしましょう」と言ってくださり、他の代議員の方々も集まり、小さな輪になって首座主教のため、常議員のためにお祈りしてくださいました。
本当に嬉しかったです。
お祈りしてくださったことで、わたしの気持ちも少し落ち着き、無事に自宅に帰ることができました。
わたし自身は以前にもこの欄に記したように本当に小さな欠けた土の器にすぎませんが、この度の新しい務めも神様から与えられたものと信じて、自分なりに精一杯果たしていこうと考えています。

 わたし自身も首座主教の務めがどのようなものかまだよく把握していませんが、教区の信徒、教役者の皆さまのご理解とご協力がなければ果たすことはできません。
何よりも皆さまのお祈りがわたしの大きな支えです。
今まで以上にお祈りくださるよう、心からお願いいたします。

2020年11月号

 コロナ禍で、主日礼拝の休止が続いている教会、愛餐会を休止している教会もありますが、九月には長寿の皆さんを囲んで礼拝、愛餐会をされた教会もあったのではないでしょうか。
わたしが管理している戸畑聖アンデレ教会でも八十歳以上の方々に案内のハガキを出し、敬老感謝の礼拝と愛餐会をしました(普段はまだ愛餐会は休止しています)。
わたしは巡杖のため出席できませんでしたが、当日は普段よりも多くの方が出席され、礼拝ではお一人おひとりのお名前を挙げて高齢者のためのお祈りを捧げ、短時間でしたが愛餐会をしてプレゼントを渡しました。
報告くださった教会委員の方のメールは「やはり、久しぶりに顔を合わせる機会となって、皆さん大変喜んでおられました」で結ばれており、会館に集まっている皆さんを思い浮べて嬉しくなりました。
顔と顔とを合わせて共に祈り、共に語り、共に食事をすることは、教会の交わりの基本です。

 新型コロナウイルス感染予防のため、外出や面会が制限され寂しい思いをされている方も多くおられることでしょう。
入院中の方もご家族や親しい人との面会が叶わないでいます。
自宅にいて外出を控えている方もおられるでしょう。
お相手のことを考えて会うことを控えている方もおられるでしょう。

 冬にはまた感染者数が増加するのではないかとも言われています。
まだ直接お会いすることは叶わないとしても、互いに主イエス様によって結ばれていることを感じられるような具体的な配慮を大事にしたいと改めて思っています。

2020年10月号

 わたしが教区主教になって七年目を迎えています。
もともと主教職を担うような器ではないことはわたし自身が一番よく分かっていますから、
当たり前と言えば当り前のことですが、本当に教区主教としての務めを果たせていないと思うことばかりです。
数字だけですべてを判断することはできませんが、教区の現状は右肩下がりです。
それにもかかわらず、教区の同労者、信徒の皆さんがお祈りくださっていることにただただ感謝です。

 現在は福岡ベテル教会、直方キリスト教会、戸畑聖アンデレ教会、鹿児島復活教会に直接関わらせていただいていますが、例えば週報一つにしても、信徒の皆さんの協力と寛容さによって何とかなっているという有様です。

そんななかでつくづく思うのです。
本当に皆さんに支えられて教区主教として、聖職として働かせていただいていると。

 マタイによる福音書十八章は、イエス様に従う者たちへの教えがまとめられています。
共同体を大切にするために、小さな者をこそ尊び、つまずかせず、自分に対して罪を犯した者に、自から行って忠告し、和解のために二人または三人が共に祈るならば、そこに共にいてくださると約束し、七を七十倍するまで赦せ、と言われます。

わたしたちが、神に赦され愛され生かされる共同体であり、また互いにそのように神様によって結ばれた絆を何よりも大切にする共同体であることを改めて教えられます。

 九州教区という神の家族の交わりのなかで皆さんとご一緒に生かされていることに感謝です。

2020年9月号

 七月以降、新型コロナウイルス感染者が全国的に増え続け、今年の夏は人の移動も例年とは違うようです。
感染予防のために、密閉、密集、密接を避けるようにと言われて、「三密」と言う言葉がすっかり定着しました。

 朝日新聞でも紹介されていましたが、「三密」という言葉は、「身密(しんみつ)」「口密(くみつ)」「意密(いみつ)」のことで、仏教の言葉だと知りました。
調べてみると、真言宗(密教)では生命現象はすべて身(身体)、口(言葉)、意(心)という三つのはたらきで成り立っていると説いているとのこと。
自らの身体、言葉、心という三つのはたらきを、仏様の三密に合致させ、大日如来と一体になることであり、具体的には、手に仏の象徴である印を結び(身密)、口に仏の言葉である真言を唱え(口密)、心を仏の境地に置くこと(意密)によって、仏様と一体になる努力をしていくこと。
弘法大師は、 この修行によって授かる功徳の力と、大日如来の加護の力(加持力)が同時にはたらいて互いに応じ合う時、即身成仏が可能になると説いている、とありました。

 コロナ感染予防の「三密」とは全く違いますが、わたしたちが「思いと言葉と行いによって多くの罪を犯していることを懴悔します」と主日礼拝で唱えていることに通じるのではないでしょうか。

 新型コロナウイルスによって戸惑いや不安を感じている方が多くおられます。
密閉、密集、密接を避けるだけでなく、身体を健康に保ち正しく振る舞う、慈しみに満ちた言葉を語る、そのためにいろいろな情報に惑わされずに心を冷静に保つ、という身、口、意の「三密」をも大切にしたいものです。

2020年8月号

 教区内の各教会には、今年も「長崎原爆記念礼拝」のポスターが掲示されていることと思います。
被爆75年という節目のこの夏、心を込めてこの礼拝を捧げたいと思っています。
被爆70年の2015年8月9日も日曜日でしたが、今年もこの日は主日になります。
さらにポスターに「コロナウイルスの感染予防のため、基本的に規模を縮小」と記されているように、遠方からの参加も難しい状況です。
直接長崎で礼拝に出席できる方は少ないと思います。
それぞれの教会の主日礼拝のなかで、長崎で捧げられている原爆記念礼拝に心を合わせ、ご一緒に被爆七五年を覚えてお祈りください。
この日の日本聖公会代祷表には「長崎原爆犠牲者と、すべての被爆者のため」とあります。
全国の教会でも代祷が捧げられます。
また海外でもこの日を覚えて祈りが捧げられることでしょう。
平和の同心円が長崎だけではなく九州教区の一つひとつの教会から広がっていきますように、平和を考える機会を設けてくだされば幸いです。

また六月に伝道部が配布した「原発のない世界を求める国際協議会基調講演」DVD もこの夏に各教会でご覧くださるようお勧めいたします。

 昨年長崎を訪問した教皇フランシスコは、爆心地公園でのメッセージの中で、「今日もなおわたしたちの良心を締めつけ続ける、何百万もの人の苦しみに無関心でいてよい人はいません。傷の痛みに叫ぶ兄弟の声に耳を塞いでよい人はどこにもいません。対話することのできない文化による破滅を前に目を閉ざしてよい人はどこにもいません」と語り、平和を造り出すことはすべての人の課題であると訴えました。

 わたしたちが、キリストの和解と平和の器として整えられ用いられますよう、聖霊のお導きを祈ります。

2020年7月号

 六月一日午後八時、全国の約二百カ所で一斉に花火が打ち上げられたというニュースを見ました。

新型コロナウイルスに負けないように花火で医療従事者に感謝を、また人びとに元気や希望を届けたいと、日本煙火協会の青年部の若手花火職人が中心になって企画したとのことです。
ニュースでは夜空に打ち上げられた花火を見上げる人たちの「勇気をもらった」などの感想が紹介されていました。
夏や秋の花火大会が次々と中止となり自分たちも厳しい状況にあるなかで、多くの人たちを励ました心温まるニュースでした。
花火大会には、悪疫退散祈願を目的に誕生したとの説もあるとのことです。

 「見上げる」ということでは、ある雑誌で興味深い文章に出会いました。

ギリシア語で「人間」のことを「アンスローポス」と言いますが、これは生物学的な意味での「人」(アンドロス)に「目」(オフタルモス)という言葉がつながってできた言葉で、元は「目を高く上げる人」という意味だったというのです。
それは人間とは目を高く上げて祈る者である、ということでしょう。

 わたしは祈るとき、目を閉じて、頭を垂れて祈ります。

朝・夕の礼拝のときもそうです。
ですから礼拝が終わった時、必ず目を上げて正面のステンドグラスの上を見つめるようにしています。
そこにはイエスを見つめる天使がおり、「大切なことはただ一つ」という聖句が記されています。
大切なことはただ一つ、その思いを新たにして聖堂を出る毎日です。

2020年6月号

 「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び。」 (詩編一三三編一節)

 昨日、緊急事態宣言を五月末まで延長すると政府から発表されました。

皆さんがこれをお読みになるときには宣言が解除されているとよいのですが、感染予防のため生活様式の変化も求められています。

 四月以降、教区内でも半数以上の教会で主日礼拝が中止されています。
また主日礼拝を捧げている教会でも、ご高齢の方、公共の交通機関を利用される方などが礼拝出席を控えておられ、主日に共に集うことが適わない方が多くおられます。
当り前で何時でも参加できると思っていた主日礼拝ですが、詩編の作者が賛美しているように、これこそ主の恵みであり、わたしたちにとって大きな喜びであったことを深く思い知らされました。

 教役者たちは、主日ごとに集まることのできない皆さんのことを心に思い浮べながら主日礼拝を捧げています。
その礼拝にそれぞれの場で心を寄せてくださっていることに感謝します。
距離的には離れていても、仲間たちと共に主に心を向け、感謝・賛美をささげ、神から与えられる恵みと喜びを味わい続けていきたいものです。

 また、自分の命を守ることだけを考えると不安が大きくなり、命は衰えます。
他者のために今日私にできることは何かを考え行うとき、命は輝くでしょう。
主と人びとに仕える生き方を今こそ大切にしたいものです。
顔と顔とを合わせて共に主のみ前に座るときが必ず来ることを信じて。

2020年5月号

 「み国が来ますように(Thy Kingdom Come)」という祈りの運動があります。
二〇一六年にイギリス国教会に向けて発せられたカンタベリー大主教とヨーク大主教の呼びかけによって始められ、教派を超えた世界的な運動に成長しているとのことです。
『み国が来ますように』を祈るすべての人々がイエス様との交わりを深め、イエス様の証人となるための自身を新たにし、他の人をイエスのもとに導くことを目的として、昇天日から聖霊降臨日までの十一日間を特別な祈りの期間として過ごします。

 今年は五月二十一日から三十一日までがその期間に当たります。
「具体的には、個別の五人を神の許へ導くことであり、彼らがイエス・キリストと出会えるように祈るのです」

(「祈りのしおり」より)。

 主教会では日本聖公会もこの祈りの運動に加わることを話し合いました。

そして祈りのしおりを皆さんにお配りし、この祈りの運動に加わってくださることをお勧めすることになりました。
まもなく各教会に送られてくることでしょう。
身近な方、イエス様に出会ってほしいと願う五人の名前を挙げて、いつかその人たちがイエス様に出会うことを信じ願いながら毎日祈るのです。
それはアンデレが「来て、見なさい」とペトロをイエスさまのもとにお連れしたように、わたしたちが愛する者たちを主のもとに招く務めを与えられていることを改めて意識させてくれることでしょう。
どなたをイエス様のもとに招こうか、わたしも今から楽しみにしながら考えています。

2020年4月号

 前回、五本の指の祈りのことを紹介しましたが、ある方から小さなパンフレットをいただきました。
皆さんにご紹介します。

 教皇フランシスコの五本の指による祈り

① 親指は、いちばんあなたのそばにある指です。
このように、近くにいる人のために祈ることから始めなさい。
かんたんに思い起こせる人たち、愛する人たちのために祈ることは、「こころよい」義務です。

② 次の指はひとさし指です。
教える人、教育する人、医療に従事する人のために祈りなさい。
そこには、先生、教授、医者、司祭が含まれます。
この人たちは、他者に正しい道を示すための支えと知恵を必要としています。

あなたの祈りのなかで、いつもこの人たちを心にかけなさい。

③ 次の指はいちばん高い指です。
わたしたちのリーダーが思い起こされます。
首相、代議士、企業の経営者、指導者のために祈ること。
この人たちは国の未来を導き、世論を形づくります。
彼らは神に導かれることが必要です。

④ 四番目の指は、薬指です。
思いのほかいちばん弱い指です。
この指は、たくさんの問題をかかえたり、病気のためにうちひしがれているもっとも弱い人たちを思い起こさせてくれます。
この人たちは、昼も夜も、あなたの祈りを必要としています。
彼らのためにささげる祈りが多すぎることはけっしてありません。
指輪をはめるので、結婚のために祈ることも思い起こさせてくれます。

⑤ 最後の指は、いちばん小さな指です。
わたしたちは、神と人びとの前で、このように自分を見なければなりません。
小指は自分自身のために祈ることを思い起こさせてくれます。
先の四つのグループのために祈った後で、正しく自分の必要が見え、そのためにもっとよく祈ることができるでしょう。

2020年3月号

 先日、ある方から次のような言葉を教えていただきました。

親指 ———― 賛美
人差指 ——— 罪の告白
中指 ————— 恵み
薬指 ————— 他者のための祈り
小指 ————— 自分のための祈り

 誰かに教えていただいたのか、あるいはご自身でお考えになられたのか分かりませんが、手を合わせて祈るときの順番を示しています。
「中指 ―― 恵み」は、与えられた恵みへの感謝、また恵みを求めることなのでしょうか。
一番気になったのは「人差指 ―― 罪の告白」です。主への賛美の次に罪の告白があることです。
わたし自身のことを振り返って、自らの罪を自覚し、それを告白する祈りが少ないことに気づかされました。

人は誰でも過ちだと分かっていて言葉にし、行動することはありません。
自分が正しいと思うことを口にし、また正しいと思うことを行うのではないでしょうか。
ですから自らの過ちを認めること、他者から指摘されてそれを認めることが難しいのかもしれません。
つい自分の言動を正当化しようとします。

だからこそ、祈りのなかで自らを省みることが必要なのでしょう。
自分では正しいと思っていても、神様の目から見たらどうなのか、自己本位のものではなかったか、愛に基づいた言動だったかどうかと振り返った時に、自信をもってそうだと言い切れるでしょうか。
自らのうちにある闇の部分、弱さ、怒り、諦め、敵意など謙虚に自らを振り返ること、罪の自覚と告白はわたしにはもっと必要なことと思えてきました。

この言葉を教えてくださった方は、誰に対しても「ありがとう」と口癖のようにおっしゃり、「自分ことは最後でいい」とおっしゃる方でした。
そんな生き方をこのような祈りが支えていたのです。

今月二六日から大斎節が始まります。教えていただいたこのことを大切にしながら祈るときにしたいと考えています。

2020年2月号

「ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう。」(イザヤ二章五節)

救い主のご降誕・新年を、主のお恵みのうちに迎えられたことと思います。
わたしは休暇をいただき年末年始を山梨で過ごさせていただきました。
例年に比べれば暖かいのでしょうが、標高一○○○メートルを超える八ヶ岳山麓の冬は、福岡の気候に慣れた私たちにはとても寒く感じられました。
しかし空気は澄み、周囲の山々は雄大で美しく、満天の星は見事です。
特に稜線から朝日が昇る直前の刻々と変化する山際の模様は感動的でした。
また陽が登り始めると、その光と熱が凍えた空気を暖めていくのを肌で感じます。

このような光景を見ていると、「闇の中を歩む民は、大いなる光を見 死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。」(イザヤ九章一節)また「起きよ、光を放て。あなたを照らす光は昇り 主の栄光はあなたの上に輝く。」(イザヤ六○章一節)というイザヤ書のみ言葉が思い起こされます。

二○二○年、マスコミではオリンピックイヤーとして輝かしい希望に満ちた年であるかのように伝えています。
しかし現実には多くの課題、社会の矛盾を抱えており、希望を持てないでいる人々、生きる困難を抱えている人々が多くいます。
一人ひとりのうちにもさまざまな恐れ、闇があることでしょう。
国外に目を向ければさらに多くの平和を脅かす状況はなくならないばかりか、より深刻化しています。
教会の歩みもまた多くの課題を抱えており、すぐに解決できないことも少なくありません。
だからこそ光を選び取り、光の子として歩む思いを確かにしたいものです。

冒頭に掲げたイザヤ書のみ言葉は、降臨節第一主日(A年)の旧約聖書の最後のみ言葉ですが、本年もキリストの光に照らされ導かれて、共に歩みたいと願っています。

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