最新メッセージ |
2023年3月号
皆さんがこれを読まれるころ、わたしはブラジル聖公会サンパウロ教区を訪問しています。
ブラジル聖公会で行われる日本人伝道100周年記念感謝礼拝(3月12日)に招かれたからです。
日本人のブラジル移民は1908年からですが、1923年3月13日、サンパウロに着いた伊藤八十二師(3年後に司祭按手されます)が、日本人6名と礼拝をしたのが日本人伝道の始まりです。
ブラジルでの日本人伝道の歴史について何も知識がなく、いただいた資料を読んでいます。
伊藤八十二司祭が建てられた聖ヨハネ教会は戦後すぐに、戦災で建物が焼かれ物資なども乏しい日本の状況を知り、婦人会が中心になってバザーを開催し、日本聖公会に支援金や物資を送っていたことを知りました。
当時は日本とブラジルは国交が途絶えておりアメリカ聖公会経由で日本に送られたそうです。
それに対して多くの方々からお礼の手紙を受け取ったとのことですが、永井隆氏から「萬里無影」と書かれた書が届き、今でも聖ヨハネ教会に飾られているのだそうです。
なぜ永井氏が書を贈ったのか記されていませんが、原爆によって壊滅的な被害を受けた長崎の教会にも支援物資が送られ、それが永井氏のもとにも届いたのではないかと想像します。
「日本聖公会九州教区史」、「長崎聖公会略史」等には記されてはいませんが、聖ヨハネ教会からの支援は九州教区にも送られたのでしょう。そのお礼もお伝えしたいと思っています。 |
2023年2月号
二〇二二年クリスマス翌日にSさんから嬉しいメールをいただきました。
Sさんはクリスマス礼拝の司式をすることになっていたのですが、ご近所の方が友人を二人連れて来られたそうです。
どなたも教会の礼拝に出席するのは初めての高齢者の方々、司式者としてどうしようと動揺したそうですが、信徒奉事者研修会のときに、わたしが「いつ、どこで、だれと礼拝しているかを把握すること。出席者によってアナウンスや唱える速度を考えること」と話したことを思い出したそうです。
そして礼拝用書に栞を挟んでお渡しし、礼拝を始める前には礼拝について簡単な説明をされ、また礼拝中も祈祷者や聖歌集を示しながら頁数をアナウンスされたとのこと。
信徒の皆さんも初めての方々の隣りに座ってサポートされたとのことです。
初めて来られた方々は祝会にも参加して「楽しかったです」と笑顔で帰っていかれたそうです。
司式されたSさんや信徒の皆さんが、初めての方々と一つになって献げる礼拝になったことでしょう。
Sさんは、「初めての方を戸惑わせたり、置き去りにすることなく、司式できたのではないかと思います」、また「礼拝がよい時間、よい場所になるように会衆の皆さんと一緒につくりあげていくことの大切さを学んだ礼拝となりました」と記されていました。
礼拝が司式者と会衆との協働の営みであることを実感されたSさんは、これからも責任と喜びをもって奉仕してくださることでしょう。
2023年1月号
早朝、福岡空港に向かう自動車の中、連れ合いが朝焼けの空を見て「わあ、きれいな空、素晴らしい!」と大きな声を上げました。
ちらっとそちらに目をやったのですが、それ程でもないな、というのが私の実感で、思わず「どこが?」と口に出てしまいました。
「あなた、きれいだと思わないの?」と呆れられ、「ラジオ深夜便で聞いたのだけれど、大人になると時間の経つのが早く感じるのは、感動が少ないからだと言っていたよ。
子ども時代に、時間が長く感じるのは、いろんなことに感動したり驚いたりするからだそうよ」と教えてくれました。
わたしにとっては年ごとに時間の経つのがどんどん早くなっているように感じられるのですが、だんだん無感動になっているということなのでしょうか。
不安になってきます。
振り返ってみるとそうかもしれないとも思えてきます。
空を見上げたり、草花に目を留めたり、川の流れを眺める時間は少なく、いつも何かに急かされているような感じです。
〝センス・オブ・ワンダー〟は子どもたちだけでなく、大人にも大切なのでしょう。
心のストレッチが必要なようです。
子どもたちのようにとはいかなくても、身の回りのことに目を留め、心を動かされ、感謝、賛美を献げる者であり、少しでも人びとの苦しみや痛みに寄り添える者でありたいと思わされました。
主イエス・キリストのご降誕をお祝い申し上げます。
今年も主の平和の器をして共に歩んでまいりましょう。
2022年12月号
最近嬉しかったことは、コロナ禍でしばらく巡杖できなかった延岡聖ステパノ教会と宮崎聖三一教会で主日礼拝を献げられたことです。
本当に久しぶりに信徒の皆さんとお会いすることができ感謝でした。
まだ巡杖できていない菊池黎明教会にも一日も早く巡杖できるようにと祈っています。
コロナ禍の中、オンラインによる会議や研修会が当たり前に行われるようになりました。
よく言われていることですが、時間や経費が節約でき、また遠方の方、出かけることが困難な方が参加可能になるなどメリットもありますが、同時に限界もあるように感じます。
時間も費用もかかるかもしれませんし、少し無理をしないといけないかもしれません。
それでも直接お会いしてご一緒に礼拝し、お話しすることは何にも代えがたい大切なことだと改めて思いました。
教会の暦はもうすぐ一年を終えようとしています。
この一年に折々に与えられた恵みと導きに感謝し、想いを新たに救い主の来臨に備える降臨節を迎えたいと考えています。
世界各地で今も継続している戦争・紛争によって尊い命が犠牲になりまた脅かされています。
気候変動、地球温暖化によって困難のうちにある人びとがいます。
コロナウイルス感染は日本でも第八波が懸念されていますが、命や生活を脅かされている人びとも少なくありません。
このような状況の中で何を大切にしていくのか、「必要なことはただ一つだけ」(ルカ十章四十二節)との主イエス様のみ言葉を思い巡らしています。
2022年11月号
十月一日に信徒奉事者研修会が開催されました。
新型コロナウイルスのために二〇一九年に開催されて以来、久し振りの開催です。
今回はオンラインでの参加も含めて二十名の皆さんがご参加くださいました。
「信徒奉事者になって初めて研修会に参加した」とおっしゃる方もおられ、二年間のブランクを改めて思わされ、またコロナ禍で普及したZoomでの参加者が増えたことは嬉しいことでした。
今回の研修会は短い時間でしたが、参加者の皆さんは真剣に講話を聴いておられ、分かち合いの時間にも活発な話し合いがなされていました。
教役者数が減少し、九州教区のすべての教会、伝道所で一カ月のうち一回または二回は信徒の司式による朝の礼拝またはみ言葉の礼拝が捧げられています。
信徒奉事者研修会でも様々な質問が出ましたが、主日礼拝の司式をするために、あるいは勧話をするために、信徒の皆さんが心を込めて熱心に準備してくださっていることに感謝いたします。
今後もまた共に学びを深めてまいりましょう。
主教座聖堂でも、他の教会でも主日に備えて準備する教役者、信徒の皆さんを覚えて祈りが捧げられていることをお覚えください。
そしてより多くの皆さんが主日に備える教役者、信徒のためにお祈りくださるようお願いいたします。
コロナ禍にあって礼拝出席者数は少なくなっているようですが、主日の礼拝がより豊かなものとなり、皆が心を一つにして主を賛美できることを願っています。
2022年10月号
七月二十六日から八月八日まで開催された第十五回ランベス会議に、わたしと和美が出席させていただきました。
皆様のお祈りとお支えに感謝いたします。
ユーチューブで配信された開会礼拝などご一緒にお祈りくださった方も多くおらたことも感謝です。
正式な発表はありませんが、約六百五十名の主教と約四百五十名の配偶者が参加しました。
同性愛を公言している主教も参加しましたが、その配偶者は招待されなかったと聞いています。
日本聖公会からは七人の主教と四人の配偶者、通訳として二人の司祭が参加しました。
会場はカンタベリー大聖堂から自動車で十五分ほど離れたケント大学で、宿泊も構内にある学生寮です。
日中は二十五度前後、朝夕は十五度前後、空気も乾燥していて、エアコンが無くても眠れるほどの気候でした。
今回のランベス会議のテーマは「神の世界のための神の教会“God’s Churchfor God’s World”」、聖書はペトロの手紙Ⅰが選ばれ、聖書については二日間にわたるカンタベリー大聖堂でのリトリート、日々の聖書の学びと小グループでの分かち合いがなされました。
また今回のテーマに基づいて、全体会議での講演に合わせて十の課題について小グループで話し合いました。
その課題とは①宣教と福音伝道②セーフ・チャーチ ③聖公会のアイデンティティ④ 和解 ⑤ 人間の尊厳⑥環境と維持可能な開発⑦キリスト者の一致 ⑧宗教関係 ⑨弟子であること⑩科学と信仰 です。
これらの課題について「ランベスからの呼びかけ(ランベス・コール)」という文書が各草起委員会から提出され、検討されました。
特に「人間の尊厳」には、同性婚に関する言及があり、この問題を巡る対立が深刻であることを感じました。
小グループでの意見が集約されて、今後「ランベスからの呼びかけ」が各管区、教区、教会に届けられます。
日本の状況に合わないものもありますが、世界の聖公会が今後十年間取り組む宣教の課題です。
期間中は多くの主教や配偶者の人たちと挨拶をします。
「日本のどこの教区?」と聞かれますが「九州」と言っても理解されませんが、「長崎を含む教区だ」と言うと、皆さんうなずいてくださいます。
八月六日の礼拝では、日本聖公会の要望で、広島と長崎の原爆犠牲者のため、核兵器廃絶のため代祷が捧げられました。
カンタベリー大主教は当日の講演の最初に広島と長崎を覚え二分間の黙祷を会場に求め、みんなで黙祷を献げられたことは嬉しいことでした。
わたしにとって最初で最後のランベス会議ですが、八年前の新任主教研修会で出会った主教たち、韓国やフィリピンなどの親しい主教たちとの再会、多くの新たな出会いを通してアングリカン・コミュニオンの多様性と豊かさを実感しました。
世界中で同じ聖公会の人たちがそれぞれの地で福音宣教に励んでいることを覚えつつ、九州というわたしたちの現場での福音宣教をしっかり担う教区でありたいと思います。
2022年9月号
皆さんのお祈りとお支えをいただきながら、ランベス会議に参加させていただいています。
この会議には百六十か国からの参加者があり、主に英語が使われますが、毎日の聖餐式、夕の礼拝では、聖書朗読は担当する管区の言語が使われます。
ちなみに今日の夕の礼拝は、香港聖公会が担当し中国語でした。
主会場には通訳者ブースが設けられ、今回は英語を除くと日本語をはじめ九か国の通訳者がいます。
英語以外の言語での講演やスピーチもあり、参加者全員にヘッドホンが渡されて、それぞれの言語で会議に参加しています。
日本語の通訳者は七名。
二名の司祭以外は英国在住で、一名は聖公会信徒の方ですが、他の四名はキリスト教のことや聖公会のことを全く知らない方々です。
でもさすがはプロフェッショナル。
教会用語も次第に理解し、熱心に通訳してくださり、わたしたちは言葉のストレスなく参加することができました。
個人的にも日本の参加者たちと親しくなりました。
感謝の気持ちを表すため、夕食にご招待したのですが、お一人おひとりがご自身のことも語ってくださり、ランベス会議の通訳をしたことで自分自身を振り返ることができ、また前向きになれたと語ってくださいました。
ランベス会議という大きな主にある交わりを通して、イエス様のぬくもりが少しでも通訳の皆さんに届けられたとしたら、わたしたちもまた、イエス様の通訳者としての務めを果たせたかと嬉しくなりました。
※ ランベス会議会期中にイギリスから送っていただいた文章です。
2022年8月号
七月になったばかりですが、例年になく早い梅雨明け、そして連日の猛暑。
電力不足、水不足が心配な夏を迎えようとしています。
ルカによる福音書にイエス様が七十二人の弟子を遣わされる物語があります。
イエス様は「行きなさい。わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに小羊を送り込むようなものだ。」(ルカ十章三節)と言われます。
それくらい危険なことだということでしょうか。
でもイエス様は「財布も袋も履物も持っていくな」と言われるのです。
危険に備えてしっかり準備しなさいと言われないのは何故なのでしょう。
この箇所を本田哲郎神父は「行きなさい。さあ、わたしはあなたたちを、狼とは対称的な子羊として、派遣する」と訳しています。
「狼」は力、権力、富、暴力などの象徴でしょう。
それに対して「小羊」は弱さ、小ささ、貧しさ、犠牲の象徴です。
「小羊として派遣する」のでしたら、財布も袋も履物も持って行くな、と言われるのも分かるような気がします。弱く、小さく、貧しい者として遣わされるのです。
自らの力に依り頼むのではなく、主に信頼しすべてを委ねて歩むのです。
彼らが派遣されて宣べ伝える「主の平和」、「神の国」は、力や富によってではなく愛によって実現されるからです。
ウクライナ、ミャンマー、パレスチナ、シリアなど今も争いが続き、多くの尊い命が犠牲になっています。
そのことを心に留め、小さき者、貧しい者として、主に信頼し、共に祈り、共に生きる主の平和の器として歩みたいものです。
2022年7月号
四月二十九日に司祭按手式が行われ塚本祐子司祭が誕生したことは、わたしたちにとって大きな喜びでした。
皆様のお祈りに感謝いたします。
司祭按手式前には福岡ベテル教会でリトリートが行われました。
山﨑貞司司祭が三回の静想講話をしてくださり、毎回、聖職として、司祭として大切にしなければならないことを聖書のみ言葉をもって示してくださいました。
最初はルカによる福音書六章十二節でした。イエス様が祈るために山に行き、神に祈って夜を明かされたという箇所です。
聖職にとって何よりも大切なことは祈りであることを第一に挙げられました。
二回目はコリントの信徒への手紙二 十二章九節の「わたしの恵みはあなたに十分である。
力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」を提示され、ご自身の延岡聖ステパノ教会時代のことに触れられ、自分の能力や努力に頼るのではなく、弱い自分のままで神様にすべて委ねて歩むことの大切さを話されました。
最後には、復活のイエス様がペトロに「あなたはわたしを愛するか」と三回言われたヨハネによる福音書二十一章十五節以下を読まれ、何よりもイエス様を大切にし、「あなたは、わたしに従いなさい」と言われたイエス様の後を忠実に歩むようにと勧められました。
毎回の山﨑司祭のお話は短いものでしたが、それだけに示された聖書箇所を十分に黙想することができ、わたしにとっても聖職について思い巡らすよい備えの機会となり感謝でした。
2022年6月号
四月九日(土)、久留米聖公教会の礼拝堂聖別式を行いました。
わたしにとって初めての礼拝堂聖別式でした。
礼拝堂の聖別は、主教の祈り、会衆の代表の祈り、牧師の祈りと続き、最後に主教と会衆の応唱となっています(祈祷書四九八~四九九頁)。
三つの祈りには、礼拝堂がどのような場所であるかが示されていますが、特に会衆の代表の祈りは印象深いものです。
「ここで主を尋ね求めるとき、いつもわたしたちの近くにいてください。
一人で来るときも、ほかの人びととともに来るときも、わたしたちを主のみもとに引き寄せてください。
慰めと知恵を見出し、主に支えられ、強められ、喜びに満たされ、感謝を献げることができるようにしてください」とあります。
誰でも悩み苦しんでいる人、悲しんでいる人、傷ついている人が、主の慰めを受け、安らぎを得、励まされ、力を与えられる場であるということです。
そのために礼拝堂は「主の臨在の宮、祈りの家」として整えられており、いつでも、誰でも、自由に祈ることができる空間であることが大切です。
その教会の信徒だけの祈りの場ではなく、地域の人々、誰にも開かれた祈りの場であるのです。
防犯上の理由などで教会の扉がいつでも開いていることは難しいことであり、特に定住教役者がいない教会では、鍵がかかっている時の方が長いのが現実でしょう。
だからこそ自分たちだけの祈りの場でないことをいつも忘れないでいたいものです。
いつ、誰が祈りの場を必要としてるか分からないのですから。
2022年5月号
「はばたく」四月号の三面に「二〇二三年日本聖公会宣教協議会 ぶどうの枝だより①」が掲載されました。
これは日本聖公会宣教協議会実行委員会から依頼を受けて、教区報に掲載したものです。
日本聖公会宣教協議会は今年開催予定でしたが、新型コロナウイルス感染拡大の影響もあり、さらに各教区・教会、施設、また管区諸委員会などとの対話を深め、より多くの皆さんとともにこれからの日本聖公会の宣教を考えるため、一年延期することになりました。
「ぶどうの枝だより①」によると、実行委員会ではアンケートなどを基に宣教協議会のテーマについて協議を重ねており、「あなたは誰の隣人になりますか」という聖書の問いかけを、大切に受け止めているとのことです。
またこのニュースレターのタイトルが「ぶどうの枝」と命名されているように、「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」(ヨハネ十五章五節)とのみ言葉を大切にし、イエス様とのつながり、イエス様を通した多様なつながりを大切にしようとしています。
そして実行委員会が何よりも望んでいることは、今から信徒や教役者の皆さんが、ご自分のこととして共に祈り、考え、関心をもっていただきたいということです。
教会生活のなかでの宣教の取り組みや困難さ、大切にしたいと思うこと、どんなことでも実行委員会に声を届けていただければと思います。
日本聖公会宣教協議会が「わたしの大事な関心事」になることを願っています。
2022年4月号
二月二十四日から始まったロシア軍によるウクライナ侵攻から二週間が過ぎようとしています。
ウクライナの街々が破壊され瓦礫と化し、犠牲者の数も日に日に増え、攻撃が激しさを増してきています。
たった一発の砲弾が罪のない市民の平和な生活を奪い恐怖へと陥れ、いのちの絆が絶たれていきます。
ロシアの言い分は一方的で到底正当化できるものではありません。
まして暗に核兵器使用をにおわせ、原子力発電所さえ攻撃することは決して赦されるべきものではありません。
どのようにしてロシア軍の侵攻を中止させ、ウクライナの平和が回復されるのか、その道筋さえ見えない状況です。
ロシア国内も含めて多くの人たちが戦争反対の声を上げていることに希望の光を感じます。
世界各地でウクライナでの軍事行動の即時中止と平和の回復を求める声があがっています。
また多くの人たちが宗派を超えて祈っています。
わたしたち一人ひとりもその祈りの輪の中にあって祈り続けていきましょう。
鹿児島復活教会、福岡聖パウロ教会では屋外の掲示板に「ウクライナのための祈り」が掲示されていました。
地域の方々に教会の姿勢を示すことも大切なことでしょう。
大斎節を過ごしていますが、今年は平和を祈りながら過ごしてまいりましょう。
四月十七日には復活日を迎えます。
ウクライナの人たち、ロシアの人たち、みんなが共に主イエス・キリストのご復活を喜び祝うことができますように。
2022年3月号
「インド独立の父」といわれるガンディーについて記した本を読みました。
一九一五年、南アフリカから戻った彼は、非暴力・非協力の運動を各地で展開し、四年後には独立運動のリーダーになります。
そのとき彼が最も大切にしたのは「断食」と「祈り」だったそうです。
民衆と一緒に飢えと祈りを共有することを大切にしたのです。
さらに彼は「断食」を通して大いなる力をいただき、自分はそれを受け止める器になるという信念を持っていたというのです。
ガンディーにとって「断食」と「祈り」は、隣人の平和を願って、神の助けを得ながら行う神への愛の実践でした。
そうした彼の在り方がヒンドゥー教徒とイスラム教徒の対立を超えて支持されていったというのです。
自分の力、能力によって独立運動を指導するのではなく、上からの力に包まれて、その声を聴きながら人々と共に歩む姿は、イエス様の姿と重なります。
福音書では、イエス様が洗礼者ヨハネから洗礼を受けた後、荒れ野で四十日間断食されたことが記されています。
それ以外に断食されたとは記されていませんが、きっとイエス様はしばしば一人で断食されたのではないかと思うのです。
神様を身近に感じ、その愛に包まれて過ごす祈りの時を大切にされたと思うのです。
大斎節を迎えました。
教会暦では大斎始日と聖金曜日(受苦日)は断食日となっていますが、「断食」を苦行と捉えるのではなく、神様に近づく時として大切にしようと思っています。
2022年2月号
GFSという団体をご存知でしょうか。
「十九世紀の産業革命の時代、英国で故郷の農村を離れて都市の工場で働いていた若い女性たちがいました。
その女性たちのために一八七五年ミセス・タウンゼントによって始められたのが、GFSの始まりです。」
(日本聖公会GFSパンフレットより)日本聖公会GFSは一九一六年に発会しています。
九州教区では一九七二年に発会式が行われ、以来八幡、長崎、福岡、小倉、佐世保、宮崎、熊本、門司、大分、直方、大牟田など各地にブランチ(支部)が設立されて、キャンプやリーダー学習会などを毎年のように開催、また全国大会や世界大会にも参加し他教区や海外の仲間たちとも豊かな交わりを持ってきました。
しかしブランチの数も減り、また会員の高齢化、後継者不足などにより昨年秋に開催された総会で今年二月に開催される日本聖公会GFS総会をもって教区GFSの活動を終えることになりました。
奇しくも今年は教区GFS発足から五十年にあたります。
二月二十六日(土)には主教座聖堂で感謝礼拝を行なう予定です。
これまでGFSの活動を通して与えられた多くの恵みに感謝し、また支えてくださった皆さんに感謝いたします。
教区GFSは一つの節目を迎えましたが、「互いに重荷を担いなさい」という精神と、礼拝・学び・奉仕・親睦を通して、特に子どもたち、青年たちを育てる務めは、教区全体の、また各教会の宣教の大切な働きです。
一つの活動を終えるこの時、しっかりと心に刻みたいと思っています。
2022年1月号
「万軍の主よ、あなたに依り頼む人はいかに幸いなことでしょう。」
(詩編八十四編十三節)
+主イエス・キリストのご降誕をお祝い申し上げます。
新型コロナウイルスの感染者数が減少し、少しずつ生活も落ち着いてきたと思っていましたが、新たな変異株が現れ、世界各国に感染者が広がっています。
新しい年もわたしたちはさまざまな制約を受けて閉塞感を感じながらの生活を送ることになるでしょうか。
コロナ禍の中で命と暮らしを脅かされている方々に生きる希望と助けがしっかりと与えられるようにと思います。
教会生活においても様々な制約を受けており、親しい交わりを持つことが困難な方々も多くおられます。
このような時だからこそお互いの主にある交わりを大切にし、直接お会いすることができないとしても、主イエス様がいつもともにいてくださること、主イエス様によって一つであるとの信仰を堅く保ち続けたいものです。
またコロナ禍の中でも忠実にイエス様の福音の喜びを証しし、宣べ伝えていくために、わたしに何ができるか祈りつつ励んでまいりたいものです。
わたしは冒頭の聖句を自分自身の年間聖句としました。
不安定な社会で何が起こるか分からないからこそ、主への信頼を確かなものとしたいのです。
何事も自分の才能、知識、努力だけでできるものではありません。
主への信頼のもとに与えられた務めを果たしていきたいと願っています。
新しい一年も、神様の恵みがお一人おひとりのうえに豊かにありますようお祈りいたします。
2021年12月号
聖公会神学院で新約聖書を教えておられる山野貴彦先生が書かれた「イエス時代のガリラヤのシナゴーグから見えてくるもの」という文章を読む機会がありました。
山野先生は考古学も専攻しておられます。
ユダヤ地方ではイエス様の時代のシナゴーグ(会堂)の遺跡が多く発掘されていますが、イエス様が活動されたガリラヤ地方では発見されていなかったとのこと。
しかし二十一世紀になって、ミグダル(マグダラのマリヤの出身地)と旧約聖書のアナハラト(ヨシュア記十九章十九節)と同定されるテル・レヘシュという町の遺跡からイエス様の時代のものと思われる会堂の遺跡が発掘されたのだそうです。
福音書にはイエス様が安息日に会堂で教え、病人を癒されたと記されていますが、確かに会堂はあったのです。
もう一つ興味深く読んだのは、シナゴーグは「民の家」と呼ばれていたということです。
シナゴーグは安息日に礼拝する場所と思っていましたが、「シナゴーグは裁判の証人探し、結婚や離婚の手続き、拾得物や損害に関する情報、児童保護、日雇い労働者の賃金取扱いなどの場として用いられた。
とりわけ困窮者保護はこの施設の重要な社会的役割であると認識されていた」とのこと、つまり生活のあらゆる面に関わる場であるので「民の家」と呼ばれるようになったとのことです。
シナゴーグが「祈りの家」であり「民の家」であったことは、わたしたちの教会の在り様に大切な示唆を与えていると思います。
2021年11月号
皆さんの教会でも二○二二年の聖公会手帳の注文があったことでしょう。
聖公会手帳は一週間が日曜日から始まっています。
しかし、書店や文具店で売られている、一頁が一週間分になっている手帳は、月曜日から始まっており、日曜日は一番下になっているものがほとんどです。
なかには土曜日と日曜日で週日の一日分というものもありました。
さすがにカレンダーは日曜日から始まるようになっていますが、このような手帳は仕事をされている方が使われることを前提として月曜日から始まり、土曜日、日曜日は休日で書き込む予定も少ないと考えてのことでしょう。
まだ私が若いころには一般の手帳も日曜日から始まっていたように記憶していますが、あまり見かけません。
わたしたちの生活は月曜日からではなく、日曜日から始まります。
主イエス・キリストの復活を祝い、感謝・賛美の礼拝を献げることから一週間が始まります。
たとえ教会の礼拝に出席することができないとしても、主の日を覚えてそれぞれの場で感謝の祈りを献げて一週間が始まるのです。
日曜日から始まる聖公会手帳は、わたしたちの信仰生活を支えてくれるものでもあります。
聖公会手帳には、教会暦、日本聖公会の教会や施設の情報だけでなく、主日、週日の聖書日課表もあり、「宣教の五指標」「教会の五要素」も、さらに二○二二年版はお祈りの頁も増えるとのことです。
日曜日から始まる信仰生活を大切にしてまいりましょう。
2021年10月号
「失われたものを数えるな 残されたものを最大限に生かせ」
八月二十四日から始まったパラリンピック。
精一杯競技する姿がとても感動的でした。
パラリンピックは一九四八年七月二十九日、ロンドンオリンピック開会日に合わせて、ロンドン郊外のストーク・マンデビル病院で行われた十六名の車いす患者(英国退役軍人)によるアーチェリー大会がその原点とのことです。
この大会を提案したのは、ナチスによるユダヤ人排斥を逃れてドイツから亡命してきたルードヴィッヒ・グットマン博士です。
彼は第二次世界大戦で負傷し脊髄損傷した患者のためにスポーツを取り入れ、身体的・精神的リハビリを行います。
冒頭の言葉はグットマン博士の言葉で、今ではパラリンピックの精神を表わす言葉として大切にされているとのことです。
この言葉は障がい者だけに当てはまるものではなく、誰に対しても当てはまる言葉ではないでしょうか。
自分にないものを数えても何にもなりません。
自分に与えられている賜物を最大限に生かすことが大切です。
神様はわたしたち一人ひとりに様々な賜物を与えてくださっています。
そしてその賜物を自分のためだけでなく、全体のために生かし用い、互いに補い合い、助け合って一つの体を作り上げるようにと望んでおられることは、コリントの信徒へ
の手紙Ⅰ十二章にある通りです。
私たちに与えられているものをよりよく生かしているかどうか、改めて考えさせられました。
2021年9月号
リデルライトホームで、新たに評議員、理事になられた方々を含めた役員会に出席しました。
評議員である大学教授の方が、学生が集まらないので介護を学ぶ学科を閉じることになったことを話されました。
リデルライトホームでも新卒の職員は少ないとのことです。
介護について素人のわたしは「どうして介護を学ぶ学生が集まらないのか。労働条件がよくないからですか」と質問しました。
すると皆さんが丁寧に教えてくださいました。
子どもたちは看護師や幼稚園、保育園の先生のことは小さい時から目にしてどんな仕事をするのかよくわかっているが、介護職の働きを目にする場面はほとんどなく、どんなにすばらしい仕事か伝わっていないこと、学校や医療現場を舞台にしたドラマや映画はあるけれども、介護をテーマにしたものはほとんどないこと、これまで介護が医療よりも低く見られてきたことなどを話してくださいました。
決してわたしが考えていたように労働条件が悪いからではないとのことです。
お一人お一人がおっしゃることは、なるほど確かにその通りと思わされました。
評議員、理事の多くの皆さんはリデルライトホームで働いておられる方々も含めて地域で長年にわたり介護福祉の働きをなされ、また介護に携わる人を育てようとしておられる方々です。
リデルライトホームの働きが、このような情熱と誇りをもった方々に支えられていることを嬉しく、また頼もしく感じました。
2021年8月号
わたしの祈祷書には「聖職に召される人が与えられるためのお祈り」カードなど、いつも挟んで持ち歩いているものがあります。
その中の一つが「焼き場に立つ少年」の写真です。
皆さんもどこかで目にしたことがあるのではないでしょうか。
テレビでもこの写真のことが取り上げられました。
小学生の少年が、頭を後ろにのけぞらしている弟をおんぶし、目を正面に向け、唇を真一文字にギュッと結び、指先を伸ばして手を太腿の横に置き、足は裸足のまま、直立不動の姿勢で立っている写真です。
アメリカ占領軍のカメラマン、ジョセフ・ロジャー・オダネル氏が原爆後の長崎で撮影したものです。
二〇一七年末に、ローマ教皇は「戦争がもたらすもの」というメッセージを添えて世界にこの写真を配信しました。
わたしの持っている写真も長崎のカトリック教会でいただいたものです。
撮影したオダネル氏は退役してから長年撮影した写真を鞄にしまっていましたが、悲惨な戦争、核兵器使用は誤りであり、使用すべきではないと、写真を公開したとのことです。
この少年が誰かを調査した方もあるようですが、詳しいことは分かっていません。
この悲しみ、悔しさ、痛みを背負って、この少年はどのような人生を歩まれたのでしょう。
多くの被爆者の皆さんが重荷を担いながら今も歩んでおられます。
戦後七十六年の今年も、過去の出来事をしっかり受け止め、証言に耳を傾け、平和の器として歩む想いを新たにしたいと思っています。
2021年7月号
昨年の日本聖公会総会で決議された「原発のない世界を求める週間」にちなんで伝道部から各教会にアンケートが送られました。
その参考資料として「地球を救う一〇〇の方法~ eco action checklist」がありました。
百の項目があり、「している」「してみたい」「できた」でチェックするようになっています。
最初の項目は「ペットボトル、アルミ缶、スチール缶の飲料はなるべく買わない。買ったらリサイクル」です。
私の自動車にはほぼいつもペットボトルのお茶が置いてあります。
飲み終えればコンビニのごみ箱に捨てますが、リサイクルされているかは不明です。
その後の項目も「している」「できた」に○をつけられる項目が予想していたよりも少ないのです。
改めてごく普通に生活しているつもりでも、環境に負荷をかけているということを思わされます。
逆にこんなことも地球に優しくすることに繋がるのだと気づかされたことも幾つもありました。
例えば「輸送時のCO2排出を考え、近い産地のものを買う」や「バザーやフリーマーケットを活用する」などです。
私も司祭時代、幾つもの教会でバザーをしていましたが、地球環境の課題との繋がりは意識していませんでした。
「被造物の本来の姿を守り、地球の生命を維持・再生するために努力すること」は聖公会の宣教の五指標の一つです。
神様がお造りになったすべての命が大切にされ、共に生きる世界となるように祈り、自らの在り方を見直したいと思います。
各教会から伝道部のアンケートにどんな回答が寄せられるか楽しみです。
2021年6月号
四月二十九日の執事按手式は、出席者を教役者と礼拝奉仕者に限定して行われましたが、ユーチューブで同時配信され、教区内外の多くの皆さんが祈りを合わせてくださり、心から感謝いたします。
直前のリトリートで中島省三司祭の静想講話をお聞きしていて、聖餐式での執事の役割について改めて気づかされました。
祈祷書では、聖餐式での福音書の朗読、代祷、懺悔の最初の呼びかけ、奉献の呼びかけ、派遣の唱和が執事の役割とされています。
祈祷書には記されていませんが、奉献されたパンとぶどう酒を聖卓に準備すること、ぶどう酒の分餐も執事の役割です。
教会の礼拝において主教と司祭を助けることは執事の役割です。
しかし、それだけが理由ではありません。
執事は悩む人、悲しむ人、病気の人、貧しい人、その他災いのうちにある人びとに仕える者であり、この世の人びとの必要、関心、希望を正しく教会に伝える働きを担っています(祈祷書四七四頁参照)。
福音書を朗読することも、代祷、奉献、分餐、派遣の唱和、どれもが執事が地域の人とのつながりをもっていることと深く関わっているのです。
執事の役割を通して分かることは、教会の礼拝、聖餐式そのものが、地域の人たち、また地域に生きる信徒の皆さんの日常生活と深く結びついているということです。
礼拝生活と日常生活は別々のものではありません。
今回のリトリートは、わたしの礼拝生活と日常生活とはどのように結びついているのかを見つめ直す機会になりました。
2021年5月号
「主の用なり」(ルカ十九章三十四節 文語聖書)
新年度を迎えました。
リデルライトホームで働いておられた中山泰男さんは聖職候補生に認可され、四月からは聖公会神学院に入学し、神学校での学びと祈りの共同生活が始まりました。
佐藤充聖職候補生はウイリアムス神学館三年生となり、最後の一年を過ごします。
そして島優子聖職候補生は四月二十九日に聖職按手を受けようとしています(皆さんがお読みになるときには執事になっていることでしょう)。
三名の聖職候補生が与えられていることは感謝です。
聖職候補生たち、また司祭への召命を目指す執事たちのため、これからもお祈りとお支えをお願いします。
「主の用なり」はリデルライトホームの納骨堂に掲げられている聖句です。
CMS の宣教師として熊本に派遣されたリデルさんらは、ハンセン病の方々と出会い、共に歩むことが使命であり「主の用」であるとして回春病院を開設します。
中山泰男さんに聖職候補生志願を促したのもこの「主の用なり」のみ言葉だと聞いています。
主はわたしたち一人ひとりに宣教の使命を与えてくださいます。
その任に相応しくないと思うこと、自分の希望とは違うと思うこともあるかもしれません。
またいやいやするのも良いとは思いません。
しかし、自分の思いを捨て、神様の導きに信頼して「主の用なり」と受け止めたいものです。
島聖職候補生の執事按手前リトリートの指導をお願いした中島省三司祭も「大役を果たせるかどうか心配ですが、『主の用なり』と考えてお引き受けします」とメールをくださいました。
2021年4月号
「せんせいへ いつもあそんでくれてありがとう ごめんねじゃないからね」
一月末に報道されたニュースでご存知の方もあると思います。
鳥栖市の保育園で新型コロナウイルスの集団感染が分かり二週間の休園となります。
冒頭の言葉はその保育園に通う園児が先生に送った手紙に書かれていたものです。
職員の発症によってクラスターとなったとのこと、園長先生、保育士や職員の皆さんは、子どもたちや保護者に対して申し訳ないと誰よりも強く責任を感じていたに違いありません。
この短いメッセージにどれだけ慰められ、励まされたことでしょう。
涙を流して喜ばれたとのことです。
感染者やその家族、あるいは医療従事者やその家族に対する偏見や差別に基づく言動に関する報道が多いなかで、このニュースはホッとする心温まるものでした。
きっと普段の保育の中で優しい思いやる心が育まれていたのではないかとも想像します。
「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。」(ヨハネ十七章二十一節)
主イエス様は十字架に掛かられる前にこのように祈られました。
救い主の受難と復活は、まさにこのための出来事です。
神様と人、人と人とを隔てている壁を取り除き、すべての人が神様のもとで一つとなること。
そのためにこそ救い主はこの世に来られ十字架に掛かられたのです。
コロナ禍だからこそ温かい思いやりのある言葉と行いでもって丁寧な関わりに励みたいです。
主イエス・キリストのご復活を心からお祝い申し上げます。
2021年3月号
九州教区には五つの幼稚園・こども園がありますが、毎月の園便りがわたしのもとにも届きます。
一月にいただいた大分の聖公幼稚園便りに、宮本榮紀園長先生がクリスマス献金について書かれた文章がありました。
聖公幼稚園ではお家の手伝いをして、いただいたお金を献金箱に入れて献げるようにしていたのですが、クリスマス礼拝で献げられた献金を集計してみると、多額の献金をしている子どもがいました。
園長先生はお礼を兼ねてお話ししようと保護者に電話したそうです。
お母さんのお話では、お子さんが献金箱を持ち帰って「園長先生、担任の先生が、かわいそうな人たちのために献金する。
お金だけじゃなく心を入れることが大事だと言った」と言うのを聞いて、お母さんが毎日大きな硬貨を渡したそうです。
また子どもが〝心〟をと言うのでそれを受け止めて、お母さんも献金してくださったとのこと。
宮本園長先生は「有難いことです。お気持ち、本当にありがとうございます。心からお礼申し上げます」と記しておられます。
毎日、困難なうちにある人のことを覚え、心を込めて嬉しそうに硬貨を献金箱に入れる子どもとそれを温かく見守るお母さんの姿が目に浮かんでくるようです。
この子だけでなく、〝心〟を献げた聖公幼稚園の子どもたち一人ひとりの献げものを神様はきっと喜ばれたことでしょう。
大斎節を迎えています。
今年も大斎克己献金袋が皆さまのお手元に届いていることでしょう。
わたしも、聖公幼稚園の子どもたちのように心をこめて日々の克己の実りをお献げしようと思っています。
2021年2月号
「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。」 (マタイ六章三十三節)
国内でも新型コロナウイルス感染者数が増え続けており、緊急事態宣言が発出されるような状況です。
日々の生活でも様々なことに制約があり、職業上の理由で、あるいは家族のことを思って感染予防に細心の注意を払いながらお過ごしの方もいらっしゃることでしょう。
まだまだコロナ禍の収束が見通せないなかで新しい年が始まりました。
冒頭の聖句はわたしが今年一年間、大切にしたいと選んだ聖句です。
幾つか思い浮かんだ聖句がありました。
自分でも意外に思ったのですが、この聖句になりました。
イエス様は群衆に「何を食べようか、何を着ようかと思い悩むな。
野の花でさえ、ソロモンの栄華よりも素晴らしく装ってくださる天の父は、あなたがたに必要なものを備えてくださる。
だから、明日のことも思い煩うことなく『何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。』」と命じられるのです。
昨年開催された教区会の主教訓辞の中でも語ったことですが、わたしたちは地域の中にあって本当に小さな群れですが、それぞれの場所で福音の光を灯し続け、喜びをもって主を賛美し、小さな出会いを一つひとつ丁寧に重ねていくことを大切にする一年になるようにと願っています。
人と人との触れ合う機会も減り、孤立しがちな状況だからこそ、いろんなことに惑わされずに神様と人、人と人とを結ぶために、今日を大切に愛をもって仕える一年にしたい、そんな思いでこの聖句を選びました。
2021年1月号
教区事務所に「はばたく」が届くとすぐに久保さんがわたしのところに一部持って来てくださいます。
わたしが一番先に読むのは最後の頁、「東西南北」です。
書いてくださった方、その教会の方々のお顔を思い浮かべながら、一つひとつの教会の記事を順番に読んでいくのがとても楽しみです。
先月号( 昨年の十二月号)もとても印象深く嬉しく読みました。
新しく始まった子ども食堂。
敬老の集いの様子。
野外礼拝。
逝去者記念式。
石田廉人くんのサーバーデビュー。
三回目で介護実務試験に合格された青坂さんは、道行く人が明るい気持ちになれるようイルミネーションを飾りたい、神様に守られて歩みたいと記しています。
長期間会うことが叶わない仲間に礼拝で聞いたみ言葉を送ろうとする高橋さん。
みんなで役割分担して献げる礼拝、九十六歳の吉井さんが週報を読まれるしっかりとしたお声が聞こえてきそうです。
地球環境を考える小さな集い。
特別大きな出来事は一つもありません。
信徒数も少ない教会の普段の出来事ですが、その中に確かに神様の存在を感じ、福音を生きる喜びや希望があふれています。
日常生活の何気ない出来事のなかに神さまの働きを見出し、福音として受け止め、その喜びを分かち合い、伝えていくこと。
それが宣教・伝道の原点です。
どの教会もすぐに解決策を見出せないさまざまな課題を抱えています。
その現実をしっかりと受け止めながら、しかし、諦めず、希望をもって歩んでまいりましょう。
新しい年も九州教区に、わたしたち一人ひとりに神さまの祝福と導きが豊かにあることを信じて。
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