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教区報に毎月掲載されるルカ武藤謙一主教のメッセージ
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2021年バックナンバー

2021年12月号

 聖公会神学院で新約聖書を教えておられる山野貴彦先生が書かれた「イエス時代のガリラヤのシナゴーグから見えてくるもの」という文章を読む機会がありました。
山野先生は考古学も専攻しておられます。
ユダヤ地方ではイエス様の時代のシナゴーグ(会堂)の遺跡が多く発掘されていますが、イエス様が活動されたガリラヤ地方では発見されていなかったとのこと。
しかし二十一世紀になって、ミグダル(マグダラのマリヤの出身地)と旧約聖書のアナハラト(ヨシュア記十九章十九節)と同定されるテル・レヘシュという町の遺跡からイエス様の時代のものと思われる会堂の遺跡が発掘されたのだそうです。
福音書にはイエス様が安息日に会堂で教え、病人を癒されたと記されていますが、確かに会堂はあったのです。

 もう一つ興味深く読んだのは、シナゴーグは「民の家」と呼ばれていたということです。
シナゴーグは安息日に礼拝する場所と思っていましたが、「シナゴーグは裁判の証人探し、結婚や離婚の手続き、拾得物や損害に関する情報、児童保護、日雇い労働者の賃金取扱いなどの場として用いられた。
とりわけ困窮者保護はこの施設の重要な社会的役割であると認識されていた」とのこと、つまり生活のあらゆる面に関わる場であるので「民の家」と呼ばれるようになったとのことです。

 シナゴーグが「祈りの家」であり「民の家」であったことは、わたしたちの教会の在り様に大切な示唆を与えていると思います。

2021年12月号

 聖公会神学院で新約聖書を教えておられる山野貴彦先生が書かれた「イエス時代のガリラヤのシナゴーグから見えてくるもの」という文章を読む機会がありました。
山野先生は考古学も専攻しておられます。
ユダヤ地方ではイエス様の時代のシナゴーグ(会堂)の遺跡が多く発掘されていますが、イエス様が活動されたガリラヤ地方では発見されていなかったとのこと。
しかし二十一世紀になって、ミグダル(マグダラのマリヤの出身地)と旧約聖書のアナハラト(ヨシュア記十九章十九節)と同定されるテル・レヘシュという町の遺跡からイエス様の時代のものと思われる会堂の遺跡が発掘されたのだそうです。
福音書にはイエス様が安息日に会堂で教え、病人を癒されたと記されていますが、確かに会堂はあったのです。

 もう一つ興味深く読んだのは、シナゴーグは「民の家」と呼ばれていたということです。
シナゴーグは安息日に礼拝する場所と思っていましたが、「シナゴーグは裁判の証人探し、結婚や離婚の手続き、拾得物や損害に関する情報、児童保護、日雇い労働者の賃金取扱いなどの場として用いられた。
とりわけ困窮者保護はこの施設の重要な社会的役割であると認識されていた」とのこと、つまり生活のあらゆる面に関わる場であるので「民の家」と呼ばれるようになったとのことです。

 シナゴーグが「祈りの家」であり「民の家」であったことは、わたしたちの教会の在り様に大切な示唆を与えていると思います。

2021年11月号

 皆さんの教会でも二○二二年の聖公会手帳の注文があったことでしょう。

聖公会手帳は一週間が日曜日から始まっています。

しかし、書店や文具店で売られている、一頁が一週間分になっている手帳は、月曜日から始まっており、日曜日は一番下になっているものがほとんどです。
なかには土曜日と日曜日で週日の一日分というものもありました。
さすがにカレンダーは日曜日から始まるようになっていますが、このような手帳は仕事をされている方が使われることを前提として月曜日から始まり、土曜日、日曜日は休日で書き込む予定も少ないと考えてのことでしょう。
まだ私が若いころには一般の手帳も日曜日から始まっていたように記憶していますが、あまり見かけません。

 わたしたちの生活は月曜日からではなく、日曜日から始まります。
主イエス・キリストの復活を祝い、感謝・賛美の礼拝を献げることから一週間が始まります。
たとえ教会の礼拝に出席することができないとしても、主の日を覚えてそれぞれの場で感謝の祈りを献げて一週間が始まるのです。

 日曜日から始まる聖公会手帳は、わたしたちの信仰生活を支えてくれるものでもあります。
聖公会手帳には、教会暦、日本聖公会の教会や施設の情報だけでなく、主日、週日の聖書日課表もあり、「宣教の五指標」「教会の五要素」も、さらに二○二二年版はお祈りの頁も増えるとのことです。

 日曜日から始まる信仰生活を大切にしてまいりましょう。

2021年10月号

 「失われたものを数えるな 残されたものを最大限に生かせ」

 八月二十四日から始まったパラリンピック。

精一杯競技する姿がとても感動的でした。
パラリンピックは一九四八年七月二十九日、ロンドンオリンピック開会日に合わせて、ロンドン郊外のストーク・マンデビル病院で行われた十六名の車いす患者(英国退役軍人)によるアーチェリー大会がその原点とのことです。
この大会を提案したのは、ナチスによるユダヤ人排斥を逃れてドイツから亡命してきたルードヴィッヒ・グットマン博士です。
彼は第二次世界大戦で負傷し脊髄損傷した患者のためにスポーツを取り入れ、身体的・精神的リハビリを行います。

冒頭の言葉はグットマン博士の言葉で、今ではパラリンピックの精神を表わす言葉として大切にされているとのことです。

 この言葉は障がい者だけに当てはまるものではなく、誰に対しても当てはまる言葉ではないでしょうか。
自分にないものを数えても何にもなりません。
自分に与えられている賜物を最大限に生かすことが大切です。
神様はわたしたち一人ひとりに様々な賜物を与えてくださっています。
そしてその賜物を自分のためだけでなく、全体のために生かし用い、互いに補い合い、助け合って一つの体を作り上げるようにと望んでおられることは、コリントの信徒へ

の手紙Ⅰ十二章にある通りです。

 私たちに与えられているものをよりよく生かしているかどうか、改めて考えさせられました。

2021年9月号

 リデルライトホームで、新たに評議員、理事になられた方々を含めた役員会に出席しました。
評議員である大学教授の方が、学生が集まらないので介護を学ぶ学科を閉じることになったことを話されました。
リデルライトホームでも新卒の職員は少ないとのことです。
介護について素人のわたしは「どうして介護を学ぶ学生が集まらないのか。労働条件がよくないからですか」と質問しました。
すると皆さんが丁寧に教えてくださいました。

子どもたちは看護師や幼稚園、保育園の先生のことは小さい時から目にしてどんな仕事をするのかよくわかっているが、介護職の働きを目にする場面はほとんどなく、どんなにすばらしい仕事か伝わっていないこと、学校や医療現場を舞台にしたドラマや映画はあるけれども、介護をテーマにしたものはほとんどないこと、これまで介護が医療よりも低く見られてきたことなどを話してくださいました。
決してわたしが考えていたように労働条件が悪いからではないとのことです。
お一人お一人がおっしゃることは、なるほど確かにその通りと思わされました。
評議員、理事の多くの皆さんはリデルライトホームで働いておられる方々も含めて地域で長年にわたり介護福祉の働きをなされ、また介護に携わる人を育てようとしておられる方々です。
リデルライトホームの働きが、このような情熱と誇りをもった方々に支えられていることを嬉しく、また頼もしく感じました。

2021年8月号

 わたしの祈祷書には「聖職に召される人が与えられるためのお祈り」カードなど、いつも挟んで持ち歩いているものがあります。
その中の一つが「焼き場に立つ少年」の写真です。

 皆さんもどこかで目にしたことがあるのではないでしょうか。
テレビでもこの写真のことが取り上げられました。
小学生の少年が、頭を後ろにのけぞらしている弟をおんぶし、目を正面に向け、唇を真一文字にギュッと結び、指先を伸ばして手を太腿の横に置き、足は裸足のまま、直立不動の姿勢で立っている写真です。
アメリカ占領軍のカメラマン、ジョセフ・ロジャー・オダネル氏が原爆後の長崎で撮影したものです。
二〇一七年末に、ローマ教皇は「戦争がもたらすもの」というメッセージを添えて世界にこの写真を配信しました。

わたしの持っている写真も長崎のカトリック教会でいただいたものです。

 撮影したオダネル氏は退役してから長年撮影した写真を鞄にしまっていましたが、悲惨な戦争、核兵器使用は誤りであり、使用すべきではないと、写真を公開したとのことです。

 この少年が誰かを調査した方もあるようですが、詳しいことは分かっていません。
この悲しみ、悔しさ、痛みを背負って、この少年はどのような人生を歩まれたのでしょう。
多くの被爆者の皆さんが重荷を担いながら今も歩んでおられます。
戦後七十六年の今年も、過去の出来事をしっかり受け止め、証言に耳を傾け、平和の器として歩む想いを新たにしたいと思っています。

2021年7月号

 昨年の日本聖公会総会で決議された「原発のない世界を求める週間」にちなんで伝道部から各教会にアンケートが送られました。
その参考資料として「地球を救う一〇〇の方法~ eco action checklist」がありました。
百の項目があり、「している」「してみたい」「できた」でチェックするようになっています。
最初の項目は「ペットボトル、アルミ缶、スチール缶の飲料はなるべく買わない。買ったらリサイクル」です。
私の自動車にはほぼいつもペットボトルのお茶が置いてあります。
飲み終えればコンビニのごみ箱に捨てますが、リサイクルされているかは不明です。
その後の項目も「している」「できた」に○をつけられる項目が予想していたよりも少ないのです。
改めてごく普通に生活しているつもりでも、環境に負荷をかけているということを思わされます。
逆にこんなことも地球に優しくすることに繋がるのだと気づかされたことも幾つもありました。
例えば「輸送時のCO2排出を考え、近い産地のものを買う」や「バザーやフリーマーケットを活用する」などです。

私も司祭時代、幾つもの教会でバザーをしていましたが、地球環境の課題との繋がりは意識していませんでした。

 「被造物の本来の姿を守り、地球の生命を維持・再生するために努力すること」は聖公会の宣教の五指標の一つです。

神様がお造りになったすべての命が大切にされ、共に生きる世界となるように祈り、自らの在り方を見直したいと思います。

各教会から伝道部のアンケートにどんな回答が寄せられるか楽しみです。

2021年6月号

 四月二十九日の執事按手式は、出席者を教役者と礼拝奉仕者に限定して行われましたが、ユーチューブで同時配信され、教区内外の多くの皆さんが祈りを合わせてくださり、心から感謝いたします。

 直前のリトリートで中島省三司祭の静想講話をお聞きしていて、聖餐式での執事の役割について改めて気づかされました。
祈祷書では、聖餐式での福音書の朗読、代祷、懺悔の最初の呼びかけ、奉献の呼びかけ、派遣の唱和が執事の役割とされています。
祈祷書には記されていませんが、奉献されたパンとぶどう酒を聖卓に準備すること、ぶどう酒の分餐も執事の役割です。
教会の礼拝において主教と司祭を助けることは執事の役割です。
しかし、それだけが理由ではありません。
執事は悩む人、悲しむ人、病気の人、貧しい人、その他災いのうちにある人びとに仕える者であり、この世の人びとの必要、関心、希望を正しく教会に伝える働きを担っています(祈祷書四七四頁参照)。
福音書を朗読することも、代祷、奉献、分餐、派遣の唱和、どれもが執事が地域の人とのつながりをもっていることと深く関わっているのです。

 執事の役割を通して分かることは、教会の礼拝、聖餐式そのものが、地域の人たち、また地域に生きる信徒の皆さんの日常生活と深く結びついているということです。
礼拝生活と日常生活は別々のものではありません。

 今回のリトリートは、わたしの礼拝生活と日常生活とはどのように結びついているのかを見つめ直す機会になりました。

2021年5月号

 「主の用なり」(ルカ十九章三十四節 文語聖書)

 新年度を迎えました。

リデルライトホームで働いておられた中山泰男さんは聖職候補生に認可され、四月からは聖公会神学院に入学し、神学校での学びと祈りの共同生活が始まりました。
佐藤充聖職候補生はウイリアムス神学館三年生となり、最後の一年を過ごします。
そして島優子聖職候補生は四月二十九日に聖職按手を受けようとしています(皆さんがお読みになるときには執事になっていることでしょう)。
三名の聖職候補生が与えられていることは感謝です。
聖職候補生たち、また司祭への召命を目指す執事たちのため、これからもお祈りとお支えをお願いします。

 「主の用なり」はリデルライトホームの納骨堂に掲げられている聖句です。
CMS の宣教師として熊本に派遣されたリデルさんらは、ハンセン病の方々と出会い、共に歩むことが使命であり「主の用」であるとして回春病院を開設します。
中山泰男さんに聖職候補生志願を促したのもこの「主の用なり」のみ言葉だと聞いています。

 主はわたしたち一人ひとりに宣教の使命を与えてくださいます。
その任に相応しくないと思うこと、自分の希望とは違うと思うこともあるかもしれません。
またいやいやするのも良いとは思いません。
しかし、自分の思いを捨て、神様の導きに信頼して「主の用なり」と受け止めたいものです。
島聖職候補生の執事按手前リトリートの指導をお願いした中島省三司祭も「大役を果たせるかどうか心配ですが、『主の用なり』と考えてお引き受けします」とメールをくださいました。

2021年4月号

 「せんせいへ いつもあそんでくれてありがとう ごめんねじゃないからね」

 一月末に報道されたニュースでご存知の方もあると思います。
鳥栖市の保育園で新型コロナウイルスの集団感染が分かり二週間の休園となります。
冒頭の言葉はその保育園に通う園児が先生に送った手紙に書かれていたものです。
職員の発症によってクラスターとなったとのこと、園長先生、保育士や職員の皆さんは、子どもたちや保護者に対して申し訳ないと誰よりも強く責任を感じていたに違いありません。

この短いメッセージにどれだけ慰められ、励まされたことでしょう。
涙を流して喜ばれたとのことです。
感染者やその家族、あるいは医療従事者やその家族に対する偏見や差別に基づく言動に関する報道が多いなかで、このニュースはホッとする心温まるものでした。
きっと普段の保育の中で優しい思いやる心が育まれていたのではないかとも想像します。

 「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。」(ヨハネ十七章二十一節)
主イエス様は十字架に掛かられる前にこのように祈られました。
救い主の受難と復活は、まさにこのための出来事です。
神様と人、人と人とを隔てている壁を取り除き、すべての人が神様のもとで一つとなること。
そのためにこそ救い主はこの世に来られ十字架に掛かられたのです。
コロナ禍だからこそ温かい思いやりのある言葉と行いでもって丁寧な関わりに励みたいです。

 主イエス・キリストのご復活を心からお祝い申し上げます。

2021年3月号

 九州教区には五つの幼稚園・こども園がありますが、毎月の園便りがわたしのもとにも届きます。

一月にいただいた大分の聖公幼稚園便りに、宮本榮紀園長先生がクリスマス献金について書かれた文章がありました。

 聖公幼稚園ではお家の手伝いをして、いただいたお金を献金箱に入れて献げるようにしていたのですが、クリスマス礼拝で献げられた献金を集計してみると、多額の献金をしている子どもがいました。
園長先生はお礼を兼ねてお話ししようと保護者に電話したそうです。
お母さんのお話では、お子さんが献金箱を持ち帰って「園長先生、担任の先生が、かわいそうな人たちのために献金する。
お金だけじゃなく心を入れることが大事だと言った」と言うのを聞いて、お母さんが毎日大きな硬貨を渡したそうです。

また子どもが〝心〟をと言うのでそれを受け止めて、お母さんも献金してくださったとのこと。
宮本園長先生は「有難いことです。お気持ち、本当にありがとうございます。心からお礼申し上げます」と記しておられます。

 毎日、困難なうちにある人のことを覚え、心を込めて嬉しそうに硬貨を献金箱に入れる子どもとそれを温かく見守るお母さんの姿が目に浮かんでくるようです。
この子だけでなく、〝心〟を献げた聖公幼稚園の子どもたち一人ひとりの献げものを神様はきっと喜ばれたことでしょう。

 大斎節を迎えています。
今年も大斎克己献金袋が皆さまのお手元に届いていることでしょう。
わたしも、聖公幼稚園の子どもたちのように心をこめて日々の克己の実りをお献げしようと思っています。

2021年2月号

  「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。」 (マタイ六章三十三節)

 国内でも新型コロナウイルス感染者数が増え続けており、緊急事態宣言が発出されるような状況です。
日々の生活でも様々なことに制約があり、職業上の理由で、あるいは家族のことを思って感染予防に細心の注意を払いながらお過ごしの方もいらっしゃることでしょう。
まだまだコロナ禍の収束が見通せないなかで新しい年が始まりました。

 冒頭の聖句はわたしが今年一年間、大切にしたいと選んだ聖句です。
幾つか思い浮かんだ聖句がありました。
自分でも意外に思ったのですが、この聖句になりました。

 イエス様は群衆に「何を食べようか、何を着ようかと思い悩むな。
野の花でさえ、ソロモンの栄華よりも素晴らしく装ってくださる天の父は、あなたがたに必要なものを備えてくださる。
だから、明日のことも思い煩うことなく『何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。』」と命じられるのです。

 昨年開催された教区会の主教訓辞の中でも語ったことですが、わたしたちは地域の中にあって本当に小さな群れですが、それぞれの場所で福音の光を灯し続け、喜びをもって主を賛美し、小さな出会いを一つひとつ丁寧に重ねていくことを大切にする一年になるようにと願っています。
人と人との触れ合う機会も減り、孤立しがちな状況だからこそ、いろんなことに惑わされずに神様と人、人と人とを結ぶために、今日を大切に愛をもって仕える一年にしたい、そんな思いでこの聖句を選びました。

2021年1月号

 教区事務所に「はばたく」が届くとすぐに久保さんがわたしのところに一部持って来てくださいます。
わたしが一番先に読むのは最後の頁、「東西南北」です。
書いてくださった方、その教会の方々のお顔を思い浮かべながら、一つひとつの教会の記事を順番に読んでいくのがとても楽しみです。

 先月号( 昨年の十二月号)もとても印象深く嬉しく読みました。
新しく始まった子ども食堂。
敬老の集いの様子。
野外礼拝。
逝去者記念式。
石田廉人くんのサーバーデビュー。
三回目で介護実務試験に合格された青坂さんは、道行く人が明るい気持ちになれるようイルミネーションを飾りたい、神様に守られて歩みたいと記しています。
長期間会うことが叶わない仲間に礼拝で聞いたみ言葉を送ろうとする高橋さん。
みんなで役割分担して献げる礼拝、九十六歳の吉井さんが週報を読まれるしっかりとしたお声が聞こえてきそうです。
地球環境を考える小さな集い。
特別大きな出来事は一つもありません。
信徒数も少ない教会の普段の出来事ですが、その中に確かに神様の存在を感じ、福音を生きる喜びや希望があふれています。
日常生活の何気ない出来事のなかに神さまの働きを見出し、福音として受け止め、その喜びを分かち合い、伝えていくこと。
それが宣教・伝道の原点です。
どの教会もすぐに解決策を見出せないさまざまな課題を抱えています。

その現実をしっかりと受け止めながら、しかし、諦めず、希望をもって歩んでまいりましょう。
新しい年も九州教区に、わたしたち一人ひとりに神さまの祝福と導きが豊かにあることを信じて。

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