2009年バックナンバー

2009年12月号

 日 主イエスのご降誕を思い巡らす時となりました。
クリスマスは、ちょうど一年の締めくくりの時期とも重なり、様々な出来事を思い起こす時でもあります。
自分自身に起きたこと、家族、教会、友人、日本、世界に起きた出来事。あの人この人の顔が思い浮かび、思い巡らします。
今年はカンタベリー大主教、オバマ大統領の顔も浮かびます。

自分たちの中でも、又世界の各地でも解決策の見出せない出来事。戦争、内乱。また大地震、津波、洪水犠牲者、被災者を思うと心が重くなります。

この時期に思い浮かぶ物語は靴屋のマルチン(トルストイ:著)、マッチ売りの少女(アンデルセン:著)など暗闇の中にポッと点る光としての クリスマス物語です。

核兵器廃絶の方向に人々の目を向けさせたオバマ大統領、またカンタベリー大主教の長崎でのメッセージはポッと点る光でした。

マタイの福音書4章16節「暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。」は暗闇の中に光として来られたイエスを指し示します。暗闇に苦しめられている人々にはイエスは光であり希望となっているのでしょう。

「光は暗闇の中に輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」(ヨハネ1:5)とヨハネは救い主イエスについて記しています。
この言葉は励ましでもあり、また理解しない人々に囲まれている現実を認識する言葉でもあります。

イエス(光)と共に生きると決心し、洗礼・堅信式を受けたわたしたちは光と共に歩む光の子にされた者です。
理解されないことはイエスのように度々あります。
しかし暗闇の中にあって光の子として歩む行動はどんなに小さな行動でも周囲を照らす光となっているのではないでしょうか。

2009年11月号

 日本聖公会宣教150周年を迎えられたことを感謝し9月23日東京カテドラル聖マリア大聖堂において大礼拝が行なわれました。2800名程の参加者であったと云われています。

日本の各地から多くの人々が集まって来られたことはもとより、海外の教会からもお祝いの為に出席してくださいました。

大韓聖公会からは現役、退職の主教がたが参加してくださっただけではなく、司祭たちと婦人聖歌隊の30数名もお祝いに来てくださいました。

カンタベリー大主教と4人の方々が英国から参加してくださり、米国聖公会から総裁主教と2名の方、これまでに日本に宣教師を派遣してくださった英国のUSPGとCMSの各代表、香港聖公会からは首座主教と2名の方、フィリピン聖公会からは首座主教と3名の主教、その他、台湾、マレーシア、オーストラリア、ミャンマから参加してくださいました。世界の聖公会はカンタベリー大主教を中心にして霊的に一つに繋がれている交わりです。今回の大礼拝はその姿に触れる時でした。

世界の聖公会に繋がれている中でわたしたちは日本で、各教区で、各教会で信仰をもって生きています。これが聖公会の特徴の一つと言えます。

例え、毎主日、10人程で、礼拝を行なっているとしても、世界の仲間と繋がっていると自覚しての礼拝には力が感じられます。

この小さな群れである日本聖公会が世界の聖公会に特別な貢献をしていると言われています。「山椒は小粒でもピリリと辛い」存在と言ったら良いでしょうか。今回のカンタベリー大主教の説教の中でも語られました。

1998年のランベス会議を救ったのは日本聖公会であったと言われています。米国聖公会が同性愛者を主教に按手したことから、イスラム教の影響を強く受けているアジア、アフリカの諸聖公会の反発は感情的な拒否反応にまで成っていました。

ランベス会議は分裂状態で終了する状況でした。   その様な時に、日本聖公会が担当した礼拝は主教達の心を静め、十字架のキリストによって与えられる赦しと再一致の福音を思い起こす時であったと言われています。
日本聖公会が礼拝で神様に捧げたものは懺悔でした。太平洋戦争の時期に、日本国民が戦争に勝つことを願ったように教会も戦勝祈願の祈りをしました。

共に生きる人々を思い巡らすことを忘れました。韓国、台湾、フィリピン、マレーシア等のアジアの人々に日本が与えた屈辱と地獄の苦しみに思いを巡らしませんでした。その懺悔の祈りをランベス会議の広島ディー(8月6日)にしました。

これが感情的にまで対立していた主教たちに他の人に目を向けさせ、和解と一致に向かう切っ掛けになったと言われています。

懺悔を通しての「和解と一致」の働きかけが大韓聖公会にも受け入れら れて、大韓聖公会において、TOPIK(Toward Peace In Korea)の働き(韓半島と東北アジアの平和のため)を日本聖公会とも協働する動きへと繋がっていった、とカンタベリー大主教は東京カテドラル聖マリア大聖堂において述べられました。

世界の聖公会に繋がる、小さな群れである日本聖公会がピリリと辛い働きを期待されている。

日本聖公会150周年に際して、日本聖公会のアイデンティテーと役割を 認識させられました。

次の言葉は日本聖公会宣教150周年記念特祷の一部です。「・・・あなたの御力に生かされながらも、時として教会は弱く、過ちを犯し、この世の力に押し流されることもありました。悔い改めと共に、思いを新たに、沖へと漕ぎ出すわたしたちの教会を強め導いてください。・・・」

2009年10月号

 夏は教会の活動も通常とは違い、定例の行事はお休みになります。教会キャンプ、バーベキュー大会等が行なわれ、また家族旅行をする等の夏ならではの活動が行なわれます。楽しい時です。

しかし定例の主教館で行なわれる「聖書を味わう集い」を休みにした為に、わたしは何か心が満たされない思いを感じています。

聖書を読み、説教の準備をし、主日礼拝では教会の人々のお顔を見ながら説教します。礼拝を終えて、会館などで交わりの時を持ち、満たされた思いになって帰宅いたします。でも交わりの中で生きるわたしたちだからでしょうか。交わりを確かめる時が少なくなると寂しくなります。

聖書の御言を読み、互いに語り合うときにはその人らしさが現われて来ます。その人の今の様子、願い事等を知り、新たな出会いの体験もあります。互いに祈り合う祈りも生まれて来ます。心の中に、その人の名前が記されたローソクに光が点されたような思いがします。

主イエスの御言を中心にした交わりには使徒信経で唱える「聖徒の交わり」が感じられます。ここには安らぎと励まし、また慰めがあり、さらには「サアもう一度仕切り直して生きていこう」と背中を押す力があります。

主イエスを信じる信仰を独りで歩むこともできます。でも「人は独りでいるのは良くない」(創世記2章18節)との言葉は信仰生活においても同じように言えるでしょう。

使徒言行録2章46節から、聖徒の交わりの中で信仰を生きる喜びと力が伝わってきます。「(信者たちは)毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していた。」

「聖徒の交わり」(教会)を楽しみましょう!

2009年9月号

 先日、菊池黎明教会の仲間の葬儀がありました。ハンセン病を患った故に、苦しい人生を過ごされたのでしょう、ご本人は「とても辛かった」と言われたそうです。

その言葉を様々に想像しましたが、想像を越える程の辛さだったのでしょう。

ハンセン病故の辛さを歌人の津田治子(アララギ派歌人、菊池黎明教会信徒)は次の歌で表しています。
「いたづきの三十余年ありしのみ どう思いても涙のにじむ」

「いたづく」とは病気、苦労を表す言葉ですがハンセン病を患った人にとってはキリストの十字架の板に付けられることをも含むと解説してもらった時のおどろき。

パウロの次の言葉による解説でした。「わたしはキリストと共に、十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。」(ガラテア2章19節)
「今やわたしは、あなたがたのために苦しむことを喜びとし、キリストの体である教会のために、キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています。」(コロサイ1章24節)

それ故に、クリスチャンとして生きた津田治子は苦しい人生であっても生きて行こうと表明したのでしょうか。
「現身(うつしみ)にヨブの終わりの 倖(しやわ)せは あらずともよし しぬびてゆかな」

ヨブ記42章7節以降は、苦しみの後にヨブに与えられた幸せが記されています。しかしこの部分は後世の付加と云われている箇所です。

  苦難の人生を、キリストと共に生きた人々の証しを聴く葬儀でした。

2009年8月号(「巻頭言」より)

  日ごとの糧を今日もお与えください。

 二十年ほど前、フィリピンを訪ねました時は、マルコス政権下でした。各地で政府軍と新人民軍NPAが戦っていました。戦いの一つの場である土地を訪ねた際に、案内してくださった司祭が道端の藪を指して『ここは昨日NPAが待ち伏せ攻撃した場所です。』と言われたのです。緊張しました。

さらに次の日には聖職のカラーが確りと見えるように着て、財布には紙幣を沢山入れておかないようにと言われてジープに乗りました。案内する司祭もジープの運転手も身支度して「さあ、行くぞ。」という緊張した面持ちの出発でした。

国内の不安定な中で聖職たちは地域住民への励ましと様々な事件の中で政府、NPAとの交渉を引受けていました。

つい、「大変ですネ。わたしには何もできない。」と言ってしまったのですが、案内してくださった司祭は「わたしたちを覚えて、祈っていてください。それがわたしたちの力になります。」と言われたのです。この出会いがきっかけとなっ て、その後はフィリピンのニュースが耳に入るようになり、見えるようになりました。彼らはどうしているのかと顔を思い起こします。

アフリカのスーダンの友人を思い起します。またアフリカのマラウィーの友人も思い起こします。指導者の一人にちがいない彼は生きて居るのだろうか、と様々に思い巡らします。

内乱の続く国の子ども達の願いを最近ニュースで知りました時には、心が重くなりました。子ども達に、「夢」は何か、と質問したところ「一日一回食事が食べられて、屋根のある所で寝ること。」、「会いたい友達に自由に会いに行かれる こと。途中で拉致されたり殺されたり、レイプされないで。」その他にも書かれていましたが、これが、今の子どもたちの夢とは何と辛いことか。

最近、わたしは主の祈りの「日ごとの糧を今日もお与えください。」を唱える際に、これらのことが思い浮かびます。様々に思い浮かぶ中で「わたしたちの罪をおゆるしください。」と唱える際には、つい、頭が下がってしまいます。すべきことをしていない思いがクローズアップしてきます。

それ故に「わたしたちを誘惑におちいらせず、悪からお救いください。」と祈願の祈りを、強い口調で、懺悔の思いをこめて唱えてしまいます。

八月は日本の各地で戦争と平和を思い起こす時です。広島で、長崎で、そして各地の空襲を覚えて。それ以前の沖縄戦。また朝鮮半島、中国、フィリピン、アジア各地で何が起きたのか。何があったのかを思い巡らします。

戦地での蛮行を写真で見るときに、人間はそこまで残酷になれるものなのか、人間とは如何に弱く、頼りない存在なのかと実感して悲しくなります。

一旦戦争になれば、愛が冷えてしまい、ありとあらゆる悪がはびこります。
憎しみの連鎖による相互の殺し合い。イラク、アフガニスタン、パレスチナ、 混乱状況にある各地。

その地で住まなければならない人々の苦悩、涙、怒り。大切な人が殺され、自分も殺される恐怖。食べ物、飲み物が不足し、怪我しても医者がいない、薬がない。

「日ごとの糧を今日もお与えください。」との祈りは平和を願い求める祈りとなります。余りに悪がはびこるので力を削がれる思いになりますが「わたしたちを覚えて祈っていてください。」との友人の言葉を思い起こし、「わたしたちの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ声を聞く神様」(出エジプト三:七)を信じて、平和を願い祈り続けます。

2009年6月号

 九州教区宣教150周年感謝礼拝は長崎聖三一教会礼拝堂に仲間たちが溢れる程に集う中で行なわれました。
早朝、家を出発し、駆けつけた人々。
聖歌隊のメンバーは前日の夜の練習から始まり、当日9時からも練習しての奉仕。

福岡聖パウロ教会麦の会(女性の会)の呼び掛けによって、教区の女性達がそれぞれに手作りの「葡萄の葉」(布で製作)を持ち寄り、300枚以上あったとのこと。
それを、壁に這わせた葡萄の木に取り付け、色とりどりの綺麗な葡萄の樹ができました。
「わたしは葡萄の木。あなたがたはその枝である。」との聖句を囲む様にしての展示でした。

礼拝は多くの人の準備によって可能となりました。駐車場の指示、受付から始まり、奉献と様々な奉仕がありました。何よりも、礼拝は皆の力強い応答と聖歌の歌で行なわれました。

参加者一人ひとりが宣教150年に際して、先達の苦労と喜びを様々に思い巡らし、主イエス様と先達に感謝する思いの滲み出ているような礼拝でした。
これは、まさにネヘミヤ書の言葉「主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である。」(8:10より)とある喜びと力を実感できる時となりました。

わたしは願います。わたしたちは主イエスに愛し抜かれて、しかも選ばれた者であることを確りと受け止めることを。 ためらったり、恥ずかしがったりせずに。
わたしたちがどのような状況にあっても主は主の栄光(愛)を現わす者としてわたしたちを用いられることを。

苦しみの時も、悲しみの時も、絶望の時も、祈れない時も、怒りの時も、信仰を失った時も、また喜びの時も、主はわたしたちを必要として、用い続けておられることを。
人々に証しする者として。

2009年5月号

 フィリピン・ワークキャンプが終わり福岡国際空港に帰ってくる人たちを迎えに行きました。
皆がどんな顔をして帰ってくるのか心配しながら、しかし楽しみにしながら出口から出てくる彼らを待ちました。

思ったより時間がかかり、心配しましたが、出てきた彼らは疲れてはいても顔は輝いていました。

仕事は教会の屋根のペンキ塗りを、教会の人々と共にすることでした。
水道設備が無く、電気もきていないので、夜は早く寝て、朝は5時頃に起きての協働作業。ホームステイですから、気苦労もあったでしょう。疲れは想像できます。

しかし、最初に聞いた言葉は目を輝かせながら「来年も行きます。」と力強く言う言葉でした。

出発前の少し不安げな様子とは全く違って、自信を持って「また行く。」という姿にはまぶしいものがありました。

豊かな自然につつまれて自然の一部となり、フィリピンの仲間から受ける歓待は、自分の存在そのものを「良し」と認められる出来事となったのではないでしょうか。

教会での報告の際に「自分の思っていた物質的豊かさは小さな幸せと思う。」と言われたそうです。

喜びが体全体から染み出る中での報告は聞く人の心の中にも染みます。

一緒に行きませんか、と誘われれば、行こうかな、とも思います。
この人々の喜びと変化を別の集まりで話しましたところ、わたしも行ってみたいとの反応が直ぐにありました。

主イエス・キリストの愛に出会った人々の喜びと行動を思い起します。
「来て、見なさい」と云ったフィリポ(ヨハネ2:46)。
「さあ、見に来てください。」と言ったサマリアの女(ヨハネ4:28−29)。
わたしたちの信仰と伝道の原点に触れました。

2009年4月号

 この原稿を書いている今日は大斎始日です。この日は灰の水曜日とも云われます。復活前主日(別名「棕櫚の主日」)に配られた棕櫚の十字架を約1年間家に飾り、次の年の大斎前主日に教会に持参し、大斎始日朝にこれを焼いて灰にします。
その灰を「あなたは塵であるから、塵に帰ることを覚えなさい」との創世記3章19節の言葉を唱えながら額に塗る礼拝が大斎始日に行われます。「灰の水曜日」の謂われです。
3年前に、フィリピン・ワークキャンプでマニラに到着した翌日がこの日でしたので参加者たちは、この礼拝に出席して新鮮な体験をしたようです。

復活前主日の礼拝では主イエスがエルサレムに入られたとき、大勢の群衆が「なつめやしの枝」を手に持って大歓迎して「ホサナ、ホサナ」と叫び続けた出来事を思い起します。
イエスの働きのクライマックスは棕櫚の枝の大歓迎から始ります。教会によってはこの日に棕櫚で教会を飾り、或いは棕櫚の十字架を各自に配って祈りが行われます。

十字架に付けられる前 夜イエスは弟子たちと最後の晩餐をします。食事前にイエスは弟子たちの足を洗い、人々の罪と背きと過ちによる汚れを十字架の血によって洗い清めるしるしを前もって示されました。

総督ピラトの前の人々の姿は悲しいです。ホサナ、ホサナと叫んだ人々が「イエスを十字架につけろ。」と叫ぶのです。まさに、塵に過ぎない存在のわたしたちを思います。ユダの裏切り、ペテロたちの裏切りが続きます。

しかし塵に過ぎない人々を極みまで愛し抜き、清めてくださるイエスは十字架の上で「成し遂げられた」と言われ、三日後に甦って「あなたがたに平和があるように」と祝福をくださるのです。

このドラマのクラマックスをゆっくりと思い巡らしつつ、善い復活日をお迎えください。

2009年3月号

 大斎節は教会生活を過ごす者には気になる長い期間です。主イエスのご復活を祝うために心の備えをする40日間であり、クリスチャンが自分を見直す修養の時として守られています。

大斎節と聖公会では称するように、この期間は神様の前に立って大いに斎(つつしみ)を持って神と自分とを見つめる時となっています。ですから重たい思いがします。

特に、主イエスがわたし達のために、苦しみを受け、十字架に付けられ、死んで、三日目によみがえられた出来事を思い巡らすからでしょう。

しかし、苦しみの中にあるときに、この思い巡らしは希望を与えられる出来事となってくるのではないかとわたしは今、感じるのです。

昨年7月、8月のランベス会議、10月の妹の逝去、11月の大切な友人の逝去、12月の母の逝去がありました。
何れも思い出すと頭を押さえ付けられる様な重たい思いと希望が与えられた時でした。

ランベス会議の21日間は分裂状況にある世界の主教たちとの凝縮された関わりの時でした。最終日はおのおのが祝福し合って、新しく開けられた扉から共に出て行く希望を感じられました。
10月、11月12月の三人についてはランベス会議開催中も常に心配している事でした。

一人ひとりの苦しみを見てきました。わたしはイエスが共にいてくださること、イエスが共に死んでくださること、そしてイエスが復活して、わたしたちに永遠の命を与えてくださるとの信仰を話しました。

妹が「わたしはもう大丈夫」と言った言葉。「肉の衣を脱いで霊の衣を着ることですね」と納得した声で話された友人。「ジャー、また」と再会を確信してサヨナラした母。

これらが大斎節の過ごし方と重なりました。

2009年2月号

 わたしが元牧師であった教会の九十七歳の信徒から手紙が届きました。死ぬ前に一度会いたい。字も確かに書けなくなったのでひらがなで書きますと、少々読みにくい手紙となっていました。

上京する機会がありましたのでその教会の聖職に連絡して許しを得てその方を訪ねました。
太平洋戦争の頃、夫は延岡の旭化成で働いておられたので子どもたちの名前は皆、延岡に因んで命名されたそうです。

当時の住まいは戦災に遭い、現在はその跡地にジャスコが建っていると聞きました。そのジャスコにはわたしも何度か行きましたと伝え、また城山の鐘の話をいたしましたら喜ばれました。その場におられた七十代のお嬢さんは、女学生時代にさがり藤(内藤家)の校章を付けて通学していたそうです。

もう一人のお嬢さんも一緒におられ、母がよく次の聖歌を歌っていましたと英語で歌い出しました。
Jesus loves me!This I know(聖歌498番主われを愛す)。子どもたちが今でも口ずさむことができる程に戦争中に英語で聖歌を歌っていたのですね。

延岡を思い起こし、聖歌を一緒に歌い、九十七歳のこの方が目を輝かし、体全体が生き生きして話している姿を目にして、お嬢さんたちは喜び、驚いておられました。日々、これとは反対の姿で過ごしておられたからです。

 倒れている者が立ち上がり、聖歌を共に聖歌を口ずさんでいる。その場に立ち会ったわたし達は、主の復活の恵みに触れた思いをもって感動いたしました。

2009年1月号

 最近、妹が亡くなり、また40年来の兄のような親しい友人が亡くなりました。
二人共に、癌を患い、かなり辛いときがありましたが、神様のもとへ旅立ちの頃は人々に囲まれて良い時を過ごしていました。

妹との最後の対話は、痩せ衰えて身体を動かせない妹の両頬を、わたしが両手で撫でた時のことです。「もっと撫でて」と言われて、わたしはニコと微笑みながらもう一度両頬を撫でましたら、「お兄さんの手から愛が伝わる。有り難う。有り難う。」と言われたのです。

わたしはこの時に妹から「あなたはわたしの愛する人、わたしの心に適う人」(参照マルコ1:11)
と祝福を与えられたような喜びに包まれました。

兄のように親しく交流を続けていた人の病床に招かれ、遺言として言われた言葉にも心が響きました。ベッドに座り、居住まいを正して「これまでに交流を持たせてもらったことに感謝いたします」と言われたのです。

立て続けに親しい人を亡くした寂しさは有りながらも、二人から与えられた祝福を思い起こす度に心が満たされます。
亡くなった二人も多くの人に囲まれ「あなたはわたしの愛する人」と言われ、祝福の中で旅立ちました。

友人がホスピスに入院してからは、毎日、人が訪ねて、毎晩、部屋で宴会が行われていたそうです。決して一人にはしておかないゾ、と言うかのように。その様子を目にした医師は「ここにはホーリー(聖)な雰囲気がある」と言われたそうです。

「あなたはわたしの愛する人」と互いに意思表示する場にはホーリーな風が吹くのでしょうか。

彼の葬儀は涙、涙がありながらも笑顔、笑顔の祈りの場でした。最後に元応援団長の「フレー、フレーよしお」に合わせて、皆の手拍子で送り出した式は印象的でした。

 

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