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教区報に毎月掲載されるルカ武藤謙一主教のメッセージ
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2022年バックナンバー

2022年12月号

 最近嬉しかったことは、コロナ禍でしばらく巡杖できなかった延岡聖ステパノ教会と宮崎聖三一教会で主日礼拝を献げられたことです。
本当に久しぶりに信徒の皆さんとお会いすることができ感謝でした。
まだ巡杖できていない菊池黎明教会にも一日も早く巡杖できるようにと祈っています。

 コロナ禍の中、オンラインによる会議や研修会が当たり前に行われるようになりました。
よく言われていることですが、時間や経費が節約でき、また遠方の方、出かけることが困難な方が参加可能になるなどメリットもありますが、同時に限界もあるように感じます。
時間も費用もかかるかもしれませんし、少し無理をしないといけないかもしれません。
それでも直接お会いしてご一緒に礼拝し、お話しすることは何にも代えがたい大切なことだと改めて思いました。

 教会の暦はもうすぐ一年を終えようとしています。
この一年に折々に与えられた恵みと導きに感謝し、想いを新たに救い主の来臨に備える降臨節を迎えたいと考えています。
世界各地で今も継続している戦争・紛争によって尊い命が犠牲になりまた脅かされています。
気候変動、地球温暖化によって困難のうちにある人びとがいます。
コロナウイルス感染は日本でも第八波が懸念されていますが、命や生活を脅かされている人びとも少なくありません。
このような状況の中で何を大切にしていくのか、「必要なことはただ一つだけ」(ルカ十章四十二節)との主イエス様のみ言葉を思い巡らしています。

2022年11月号

 十月一日に信徒奉事者研修会が開催されました。

新型コロナウイルスのために二〇一九年に開催されて以来、久し振りの開催です。
今回はオンラインでの参加も含めて二十名の皆さんがご参加くださいました。
「信徒奉事者になって初めて研修会に参加した」とおっしゃる方もおられ、二年間のブランクを改めて思わされ、またコロナ禍で普及したZoomでの参加者が増えたことは嬉しいことでした。

 今回の研修会は短い時間でしたが、参加者の皆さんは真剣に講話を聴いておられ、分かち合いの時間にも活発な話し合いがなされていました。

 教役者数が減少し、九州教区のすべての教会、伝道所で一カ月のうち一回または二回は信徒の司式による朝の礼拝またはみ言葉の礼拝が捧げられています。
信徒奉事者研修会でも様々な質問が出ましたが、主日礼拝の司式をするために、あるいは勧話をするために、信徒の皆さんが心を込めて熱心に準備してくださっていることに感謝いたします。
今後もまた共に学びを深めてまいりましょう。

 主教座聖堂でも、他の教会でも主日に備えて準備する教役者、信徒の皆さんを覚えて祈りが捧げられていることをお覚えください。
そしてより多くの皆さんが主日に備える教役者、信徒のためにお祈りくださるようお願いいたします。

 コロナ禍にあって礼拝出席者数は少なくなっているようですが、主日の礼拝がより豊かなものとなり、皆が心を一つにして主を賛美できることを願っています。

2022年10月号

 七月二十六日から八月八日まで開催された第十五回ランベス会議に、わたしと和美が出席させていただきました。
皆様のお祈りとお支えに感謝いたします。
ユーチューブで配信された開会礼拝などご一緒にお祈りくださった方も多くおらたことも感謝です。

 正式な発表はありませんが、約六百五十名の主教と約四百五十名の配偶者が参加しました。
同性愛を公言している主教も参加しましたが、その配偶者は招待されなかったと聞いています。
日本聖公会からは七人の主教と四人の配偶者、通訳として二人の司祭が参加しました。

 会場はカンタベリー大聖堂から自動車で十五分ほど離れたケント大学で、宿泊も構内にある学生寮です。

日中は二十五度前後、朝夕は十五度前後、空気も乾燥していて、エアコンが無くても眠れるほどの気候でした。

 今回のランベス会議のテーマは「神の世界のための神の教会“God’s Churchfor God’s World”」、聖書はペトロの手紙Ⅰが選ばれ、聖書については二日間にわたるカンタベリー大聖堂でのリトリート、日々の聖書の学びと小グループでの分かち合いがなされました。

 また今回のテーマに基づいて、全体会議での講演に合わせて十の課題について小グループで話し合いました。
その課題とは①宣教と福音伝道②セーフ・チャーチ ③聖公会のアイデンティティ④ 和解 ⑤ 人間の尊厳⑥環境と維持可能な開発⑦キリスト者の一致 ⑧宗教関係 ⑨弟子であること⑩科学と信仰 です。
これらの課題について「ランベスからの呼びかけ(ランベス・コール)」という文書が各草起委員会から提出され、検討されました。
特に「人間の尊厳」には、同性婚に関する言及があり、この問題を巡る対立が深刻であることを感じました。
小グループでの意見が集約されて、今後「ランベスからの呼びかけ」が各管区、教区、教会に届けられます。

日本の状況に合わないものもありますが、世界の聖公会が今後十年間取り組む宣教の課題です。

 期間中は多くの主教や配偶者の人たちと挨拶をします。
「日本のどこの教区?」と聞かれますが「九州」と言っても理解されませんが、「長崎を含む教区だ」と言うと、皆さんうなずいてくださいます。
八月六日の礼拝では、日本聖公会の要望で、広島と長崎の原爆犠牲者のため、核兵器廃絶のため代祷が捧げられました。
カンタベリー大主教は当日の講演の最初に広島と長崎を覚え二分間の黙祷を会場に求め、みんなで黙祷を献げられたことは嬉しいことでした。
わたしにとって最初で最後のランベス会議ですが、八年前の新任主教研修会で出会った主教たち、韓国やフィリピンなどの親しい主教たちとの再会、多くの新たな出会いを通してアングリカン・コミュニオンの多様性と豊かさを実感しました。
世界中で同じ聖公会の人たちがそれぞれの地で福音宣教に励んでいることを覚えつつ、九州というわたしたちの現場での福音宣教をしっかり担う教区でありたいと思います。

2022年9月号

 皆さんのお祈りとお支えをいただきながら、ランベス会議に参加させていただいています。
この会議には百六十か国からの参加者があり、主に英語が使われますが、毎日の聖餐式、夕の礼拝では、聖書朗読は担当する管区の言語が使われます。
ちなみに今日の夕の礼拝は、香港聖公会が担当し中国語でした。
主会場には通訳者ブースが設けられ、今回は英語を除くと日本語をはじめ九か国の通訳者がいます。
英語以外の言語での講演やスピーチもあり、参加者全員にヘッドホンが渡されて、それぞれの言語で会議に参加しています。

 日本語の通訳者は七名。
二名の司祭以外は英国在住で、一名は聖公会信徒の方ですが、他の四名はキリスト教のことや聖公会のことを全く知らない方々です。
でもさすがはプロフェッショナル。
教会用語も次第に理解し、熱心に通訳してくださり、わたしたちは言葉のストレスなく参加することができました。
個人的にも日本の参加者たちと親しくなりました。
感謝の気持ちを表すため、夕食にご招待したのですが、お一人おひとりがご自身のことも語ってくださり、ランベス会議の通訳をしたことで自分自身を振り返ることができ、また前向きになれたと語ってくださいました。
ランベス会議という大きな主にある交わりを通して、イエス様のぬくもりが少しでも通訳の皆さんに届けられたとしたら、わたしたちもまた、イエス様の通訳者としての務めを果たせたかと嬉しくなりました。

※ ランベス会議会期中にイギリスから送っていただいた文章です

2022年8月号

 七月になったばかりですが、例年になく早い梅雨明け、そして連日の猛暑。
電力不足、水不足が心配な夏を迎えようとしています。

 ルカによる福音書にイエス様が七十二人の弟子を遣わされる物語があります。

イエス様は「行きなさい。わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに小羊を送り込むようなものだ。」(ルカ十章三節)と言われます。
それくらい危険なことだということでしょうか。
でもイエス様は「財布も袋も履物も持っていくな」と言われるのです。
危険に備えてしっかり準備しなさいと言われないのは何故なのでしょう。

 この箇所を本田哲郎神父は「行きなさい。さあ、わたしはあなたたちを、狼とは対称的な子羊として、派遣する」と訳しています。

「狼」は力、権力、富、暴力などの象徴でしょう。
それに対して「小羊」は弱さ、小ささ、貧しさ、犠牲の象徴です。
「小羊として派遣する」のでしたら、財布も袋も履物も持って行くな、と言われるのも分かるような気がします。弱く、小さく、貧しい者として遣わされるのです。
自らの力に依り頼むのではなく、主に信頼しすべてを委ねて歩むのです。
彼らが派遣されて宣べ伝える「主の平和」、「神の国」は、力や富によってではなく愛によって実現されるからです。

 ウクライナ、ミャンマー、パレスチナ、シリアなど今も争いが続き、多くの尊い命が犠牲になっています。

そのことを心に留め、小さき者、貧しい者として、主に信頼し、共に祈り、共に生きる主の平和の器として歩みたいものです。

2022年7月号

 四月二十九日に司祭按手式が行われ塚本祐子司祭が誕生したことは、わたしたちにとって大きな喜びでした。
皆様のお祈りに感謝いたします。
司祭按手式前には福岡ベテル教会でリトリートが行われました。
山﨑貞司司祭が三回の静想講話をしてくださり、毎回、聖職として、司祭として大切にしなければならないことを聖書のみ言葉をもって示してくださいました。

 最初はルカによる福音書六章十二節でした。イエス様が祈るために山に行き、神に祈って夜を明かされたという箇所です。
聖職にとって何よりも大切なことは祈りであることを第一に挙げられました。

 二回目はコリントの信徒への手紙二 十二章九節の「わたしの恵みはあなたに十分である。
力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」を提示され、ご自身の延岡聖ステパノ教会時代のことに触れられ、自分の能力や努力に頼るのではなく、弱い自分のままで神様にすべて委ねて歩むことの大切さを話されました。

 最後には、復活のイエス様がペトロに「あなたはわたしを愛するか」と三回言われたヨハネによる福音書二十一章十五節以下を読まれ、何よりもイエス様を大切にし、「あなたは、わたしに従いなさい」と言われたイエス様の後を忠実に歩むようにと勧められました。

 毎回の山﨑司祭のお話は短いものでしたが、それだけに示された聖書箇所を十分に黙想することができ、わたしにとっても聖職について思い巡らすよい備えの機会となり感謝でした。

2022年6月号

 四月九日(土)、久留米聖公教会の礼拝堂聖別式を行いました。
わたしにとって初めての礼拝堂聖別式でした。
礼拝堂の聖別は、主教の祈り、会衆の代表の祈り、牧師の祈りと続き、最後に主教と会衆の応唱となっています(祈祷書四九八~四九九頁)。

 三つの祈りには、礼拝堂がどのような場所であるかが示されていますが、特に会衆の代表の祈りは印象深いものです。

「ここで主を尋ね求めるとき、いつもわたしたちの近くにいてください。
一人で来るときも、ほかの人びととともに来るときも、わたしたちを主のみもとに引き寄せてください。
慰めと知恵を見出し、主に支えられ、強められ、喜びに満たされ、感謝を献げることができるようにしてください」とあります。
誰でも悩み苦しんでいる人、悲しんでいる人、傷ついている人が、主の慰めを受け、安らぎを得、励まされ、力を与えられる場であるということです。

 そのために礼拝堂は「主の臨在の宮、祈りの家」として整えられており、いつでも、誰でも、自由に祈ることができる空間であることが大切です。
その教会の信徒だけの祈りの場ではなく、地域の人々、誰にも開かれた祈りの場であるのです。

 防犯上の理由などで教会の扉がいつでも開いていることは難しいことであり、特に定住教役者がいない教会では、鍵がかかっている時の方が長いのが現実でしょう。
だからこそ自分たちだけの祈りの場でないことをいつも忘れないでいたいものです。
いつ、誰が祈りの場を必要としてるか分からないのですから。

2022年5月号

 「はばたく」四月号の三面に「二〇二三年日本聖公会宣教協議会 ぶどうの枝だより①」が掲載されました。
これは日本聖公会宣教協議会実行委員会から依頼を受けて、教区報に掲載したものです。

日本聖公会宣教協議会は今年開催予定でしたが、新型コロナウイルス感染拡大の影響もあり、さらに各教区・教会、施設、また管区諸委員会などとの対話を深め、より多くの皆さんとともにこれからの日本聖公会の宣教を考えるため、一年延期することになりました。

 「ぶどうの枝だより①」によると、実行委員会ではアンケートなどを基に宣教協議会のテーマについて協議を重ねており、「あなたは誰の隣人になりますか」という聖書の問いかけを、大切に受け止めているとのことです。

またこのニュースレターのタイトルが「ぶどうの枝」と命名されているように、「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」(ヨハネ十五章五節)とのみ言葉を大切にし、イエス様とのつながり、イエス様を通した多様なつながりを大切にしようとしています。

 そして実行委員会が何よりも望んでいることは、今から信徒や教役者の皆さんが、ご自分のこととして共に祈り、考え、関心をもっていただきたいということです。
教会生活のなかでの宣教の取り組みや困難さ、大切にしたいと思うこと、どんなことでも実行委員会に声を届けていただければと思います。

 日本聖公会宣教協議会が「わたしの大事な関心事」になることを願っています。

2022年4月号

 二月二十四日から始まったロシア軍によるウクライナ侵攻から二週間が過ぎようとしています。

ウクライナの街々が破壊され瓦礫と化し、犠牲者の数も日に日に増え、攻撃が激しさを増してきています。
たった一発の砲弾が罪のない市民の平和な生活を奪い恐怖へと陥れ、いのちの絆が絶たれていきます。
ロシアの言い分は一方的で到底正当化できるものではありません。
まして暗に核兵器使用をにおわせ、原子力発電所さえ攻撃することは決して赦されるべきものではありません。
どのようにしてロシア軍の侵攻を中止させ、ウクライナの平和が回復されるのか、その道筋さえ見えない状況です。

 ロシア国内も含めて多くの人たちが戦争反対の声を上げていることに希望の光を感じます。
世界各地でウクライナでの軍事行動の即時中止と平和の回復を求める声があがっています。
また多くの人たちが宗派を超えて祈っています。
わたしたち一人ひとりもその祈りの輪の中にあって祈り続けていきましょう。
鹿児島復活教会、福岡聖パウロ教会では屋外の掲示板に「ウクライナのための祈り」が掲示されていました。
地域の方々に教会の姿勢を示すことも大切なことでしょう。

 大斎節を過ごしていますが、今年は平和を祈りながら過ごしてまいりましょう。
四月十七日には復活日を迎えます。
ウクライナの人たち、ロシアの人たち、みんなが共に主イエス・キリストのご復活を喜び祝うことができますように。

2022年3月号

 「インド独立の父」といわれるガンディーについて記した本を読みました。

一九一五年、南アフリカから戻った彼は、非暴力・非協力の運動を各地で展開し、四年後には独立運動のリーダーになります。

そのとき彼が最も大切にしたのは「断食」と「祈り」だったそうです。
民衆と一緒に飢えと祈りを共有することを大切にしたのです。
さらに彼は「断食」を通して大いなる力をいただき、自分はそれを受け止める器になるという信念を持っていたというのです。
ガンディーにとって「断食」と「祈り」は、隣人の平和を願って、神の助けを得ながら行う神への愛の実践でした。
そうした彼の在り方がヒンドゥー教徒とイスラム教徒の対立を超えて支持されていったというのです。

 自分の力、能力によって独立運動を指導するのではなく、上からの力に包まれて、その声を聴きながら人々と共に歩む姿は、イエス様の姿と重なります。

 福音書では、イエス様が洗礼者ヨハネから洗礼を受けた後、荒れ野で四十日間断食されたことが記されています。
それ以外に断食されたとは記されていませんが、きっとイエス様はしばしば一人で断食されたのではないかと思うのです。
神様を身近に感じ、その愛に包まれて過ごす祈りの時を大切にされたと思うのです。

 大斎節を迎えました。
教会暦では大斎始日と聖金曜日(受苦日)は断食日となっていますが、「断食」を苦行と捉えるのではなく、神様に近づく時として大切にしようと思っています。

2022年2月号

 GFSという団体をご存知でしょうか。
「十九世紀の産業革命の時代、英国で故郷の農村を離れて都市の工場で働いていた若い女性たちがいました。
その女性たちのために一八七五年ミセス・タウンゼントによって始められたのが、GFSの始まりです。」
(日本聖公会GFSパンフレットより)日本聖公会GFSは一九一六年に発会しています。

 九州教区では一九七二年に発会式が行われ、以来八幡、長崎、福岡、小倉、佐世保、宮崎、熊本、門司、大分、直方、大牟田など各地にブランチ(支部)が設立されて、キャンプやリーダー学習会などを毎年のように開催、また全国大会や世界大会にも参加し他教区や海外の仲間たちとも豊かな交わりを持ってきました。

 しかしブランチの数も減り、また会員の高齢化、後継者不足などにより昨年秋に開催された総会で今年二月に開催される日本聖公会GFS総会をもって教区GFSの活動を終えることになりました。
奇しくも今年は教区GFS発足から五十年にあたります。
二月二十六日(土)には主教座聖堂で感謝礼拝を行なう予定です。

 これまでGFSの活動を通して与えられた多くの恵みに感謝し、また支えてくださった皆さんに感謝いたします。
教区GFSは一つの節目を迎えましたが、「互いに重荷を担いなさい」という精神と、礼拝・学び・奉仕・親睦を通して、特に子どもたち、青年たちを育てる務めは、教区全体の、また各教会の宣教の大切な働きです。
一つの活動を終えるこの時、しっかりと心に刻みたいと思っています。

2022年1月号

 「万軍の主よ、あなたに依り頼む人はいかに幸いなことでしょう。」
(詩編八十四編十三節)

 +主イエス・キリストのご降誕をお祝い申し上げます。
新型コロナウイルスの感染者数が減少し、少しずつ生活も落ち着いてきたと思っていましたが、新たな変異株が現れ、世界各国に感染者が広がっています。
新しい年もわたしたちはさまざまな制約を受けて閉塞感を感じながらの生活を送ることになるでしょうか。
コロナ禍の中で命と暮らしを脅かされている方々に生きる希望と助けがしっかりと与えられるようにと思います。

 教会生活においても様々な制約を受けており、親しい交わりを持つことが困難な方々も多くおられます。
このような時だからこそお互いの主にある交わりを大切にし、直接お会いすることができないとしても、主イエス様がいつもともにいてくださること、主イエス様によって一つであるとの信仰を堅く保ち続けたいものです。
またコロナ禍の中でも忠実にイエス様の福音の喜びを証しし、宣べ伝えていくために、わたしに何ができるか祈りつつ励んでまいりたいものです。

 わたしは冒頭の聖句を自分自身の年間聖句としました。
不安定な社会で何が起こるか分からないからこそ、主への信頼を確かなものとしたいのです。
何事も自分の才能、知識、努力だけでできるものではありません。
主への信頼のもとに与えられた務めを果たしていきたいと願っています。

 新しい一年も、神様の恵みがお一人おひとりのうえに豊かにありますようお祈りいたします。

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