教区報「はばたく」に掲載のコラム

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2015年バックナンバー

2015年12月号

 「青少年がイエスの心に触れるのは、文学でも言葉でもなく、イエスに自分の人生を合わせて生きる人の姿である。」(森一弘著「開かれた教会」)。
若者たちの宗教離れ、教会離れが言われて久しいが、三十年も前に書かれた本なのに、最近妙に気にかかり、手に取って読んでいる。
表記の箇所も、まさにその通りで、ミッション校に限らず、また、教壇に立つ立場に限らず「み言葉の宣教」は、極めてみれば、その人の「生きざま」によってなされる。
饒舌でなくても、理路整然としていなくても、むしろ、その方が良いのだと思う。
この本が書かれてから、社会状況も様々に変わって行った。
ある意味で、さらに複雑の度合いを増して行ったとも言える。
しかし、それだからこそ、その複雑さの中で苦しんでいる人も増えている。
子どもたちが、青年達が苦しんでいる。
彼らを生かすため、み言葉を伝えなければ! どんなに大きな組織を作っても、また綺麗な規律が守られていても、み言葉を伝えるのは、信じているその人以外にない!
恐れることはない!
信じる人には、神自らが共に居られるのだから。

(司祭 中野准之)


 

2015年11月号

 三重県伊勢市で起こった同級生殺害事件。
亡くなった女子高校生は「自分には生きている価値がない」と悩んでいたと聞きます。
わずか高校生という若さでその命を終えるのも残念ですが、高校生にもなっていて「自己の生きる価値」を見いだせないでいた事にも、苛立たしい無念さを感じます。

 「何が君の幸せ、何をして喜ぶ」…。おなじみアンパンマンの歌。
子どもになじみやすいにもかかわらず、その歌詞は「人は何のために生きるのか?」と言う人生のテーマが歌いこまれています。
アンパンマンの作者であり、この歌の作詞者であるやなせたかし氏は、戦争体験によって、アンパンマンのストーリーを、そしてこの歌の歌詞を、つくり上げていったと聞きます。
戦後七十年を迎え、平和な時代の中で、「何のために生きているのか」に確かな答えを持っていない若者たちが、また一人、自分の命、自分の価値を見出すことが出来ずに、その命を失っている。
アンパンマンも、そしてイエス様も、人が見出せない価値を、畑に隠された宝のように見出し喜ばれる方。
知ってほしい。自分の価値を。

(司祭 中野准之)

2015年10月号

 絵手紙を頂いた。
はがきいっぱいに描かれたひまわりの花と、「心涼しく」の文字が、なんともいえず心を和ませてくれました。
心をつくした沢山の言葉で無事を尋ねてくれるお便りも嬉しいのですが、絵手紙となると、また趣も異なり、人の優しさや「心」を直接感じる事ができ、嬉しいものです。
イエス様のみ言葉も絵手紙の趣を持っているように思います。
言葉の一つ一つをかみしめ、味わうことができ、聖書を通して心に描くイエス様の姿は、一幅の絵のようにも感じられます。

「疲れた者、重荷を負う者は、誰でもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」(マタイ十一章二八節)。

イエス様から絵手紙を頂き、その言葉と心を和ませるその姿(絵)に、暑かった夏も、これから迎える秋も、冬も乗り越えて生きていけそうに思わせてくださいます。
絵手紙を自分も書けたらいいなと憧れます。
イエス様の絵手紙のようなお話を、人に出来たらいいな、と望みます。
説教というものも、イエス様からのお便りを「転送」しているようなもの、そうできたらいいですね!

(司祭 中野准之)

2015年9月号

 「進撃の巨人」と言う漫画がある。映画化もされた。
未来の話で、「巨人」が出現し、しかもその巨人は人間を「捕食」する、というストーリーである。
「捕食」とは言わないまでも、食べる側から「食べられる」側へ「視点」を変えた話が、人気を呼んでいるのかも。

「『圧殺の海』沖縄│ 辺野古」と言う映画を、久留米の教会を会場に上映した。
ご存知のように、普天間基地の代替地として辺野古が持ち上がって久しいが、地元の人たちの視点での情報はあまり得ることができないのが実情である。
何故、あんなに反対するのか? 日本の防衛上、またアジアの平和維持の立場から「見れば」必要ではないのか? と言う意見もたくさん聞く。
でも、基地が造られる「現地」の側に立った見方は、あまり聞くことがない。
平等に見ているつもりでも、自分の「視点」を変えるのは大変難しいと思う。
自己中心の「視点」が人間の限界かも知れない。

「人の気持ちになって!」と子どもには言うが、難しい。
自己中心から離れ、他の視点を持つことこそ、神を信じる「信仰」の恵みではないだろうか。

(司祭 中野准之)

2015年8月号

 「原発はもう手放しましょう」(いのちのことば社)と言う本を手にした。
ヒロシマ、ナガサキの七十回目の被爆の日を迎え、川内原発再稼働が近づき、玄海原発再稼働も現実的になったこの八月。
フクシマの出来事に心を痛めながら、九州教区の「福島の家族受け入れプログラム」に心を向けながらも、思うようにならない現実を前にこの本に出会いました。
この本で一番胸に迫ったのは「原発の問題は、差別の問題です」という言葉でした。
著者が(野中宏樹氏・木村公一氏の共著)牧師なので、聖書に基づいた記述もあります。
そして、原発という技術、政治、事業、環境が「差別」に基づいて築かれたものであることを、簡潔に述べています。

「原発の安全性」とは、良く聞く言葉ですが、原発の建設地である過疎地の人びとや原発の作業員、そして、原発の原料であるウランを採掘している人々にまで記述は及びます。
これほど人の命に「格差」を設けて差別しないと動かない技術は「もう手放しましょう」と説いています。
未来を生きる子どもの命への「差別」も、私の心を動かします。

(司祭 中野准之)

2015年7月号

 五月の下旬。全国で三十度を超える真夏日があった日、温暖な気候で有名なアメリカのカリフォルニアで雪が降ったそうだ。
そのニュースを聞いた人で、「地球温暖化」を思い出さない人はいなかっただろう。
原発の問題でも同様なことを思いますが、「温暖化は危険だ」と言う学者と、「大丈夫だ、大した影響はない」と言う学者とがいて、そのような知識や判断の出来ないわたしたちは、どのように理解し、判断したらいいのか分からなくなります。

 学者は、大変な学業を積んで、知識の構築の上で発言しているのですから、その発言に基づいた「行動」があるはずです。
学問的に、信じて、発言している事柄について、行動が伴わねばならないのは当然なのです。
わたしたちは、「行動が伴っている学者」の発言を重要視するでしょう。

 人は「信じている事柄」について声をあげ、行動します。
キリストを信じるわたしたちは、命に関して「信じている事柄」があります。
自ら「信じた事柄」を、忠実に生きてこそ、その姿の中に、人はキリストを感じるのではないでしょうか。

(司祭 中野准之)

2015年6月号

 ユダヤのお話に「人の心にはガラスの窓があり、その窓から人を見る。
金(かね)がたまるとそのガラスには薄い金(きん)の幕が張られ鏡となり、やがて自分しか見えなくなる。」というのがある。

 江戸時代の川柳に「欲深き人の心と降る雪は積もりにつれて道を忘るる」と言うのがある。

日本でも、昔から大金を持つことが人の道にそれる事になる、との考えがあったようで、お金を持つ事への禁欲的なものも感じるが、逆に見れば、やはり、みんなお金が欲しかったからこそ、こんな川柳が残されているのだろうとも思う。

 「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。」(使徒言行録三章六節)と言って、足が不自由だった男を癒したペトロのことをわたしたちは知っているが、現代の教会は「何かを」与えようとしているのだろうか?

 問題は、自分が「何をいただいたのか?」ではないだろうか。
神から頂いたものを感謝して受け取り、それを神へ(隣人へ)返して行く。
「先に」いただいているのですから、丁寧に返して行きたいものです。

(司祭 中野准之)

2015年5月号

 マザー・テレサの有名な言葉の一つに「愛の反対は憎しみではなく無関心です」というのがあります。
逆にいえば、関心を持つことから愛が始まる、と言えるのでしょう。

 久留米に赴任してから「NPO法人ホームレス支援久留米越冬の会」の活動に参加しています。
現在、ホームレスの方々には、一言で言えないほど複雑な状況があり、その方々を支援をするには、様々な配慮と同時に努力がいることを学びました。

マザー・テレサの言うように、関心を持てばいい、と言うことだけでは済まない問題があるように感じます。

 しかし、マザー・テレサもまた、単純に「関心を持てばいい」とは言っていません。
愛の業を「始める」には、まず関心を持つことだ、と言っているのです。
彼女のなした業もまた、様々な問題を乗り越えて、関心を持ち続け、愛の業を行ってきたのだ、と知ります。

 「(愛は)すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。」(一コリント十三章七節)

 愛の業は、何事においても、苦しみを伴うのですね。

(司祭 中野准之)

2015年4月号

 「笑顔を忘れないでください。みんなが笑顔でいることは、神様がおられることを現しているからです」。
幼稚園の卒園礼拝で、子どもたちに贈った言葉です。

 「笑顔」は良いですね。
朝起きて、最初に交わす挨拶にも笑顔があれば、その日一日幸せな気持ちにもなれます。

 「主において常に喜びなさい」(フィリピ書四章四節)との言葉は、笑顔のあるところに、神様の支配とみ守りがあることを指し示しているのではないでしょうか?

 ですから、教会にはいつも笑顔があってほしいと思います。
日常に疲れ果てて、教会にたどりついた一人一人に、神様が、礼拝において、み言葉を通して、交わりの中で、神様に愛されていることを思い出させてくださり、笑顔を与えられる信徒達。

それが「ここに」神様の「愛」があることを証しします。

 笑顔は、愛のあるところに存在します。
笑顔がある教会でありたい、と願います。

 笑顔になれなかった人が笑顔を取り戻す。
神様の愛に満たされた、笑顔のあるキリストの教会を目指したい。

(司祭 中野准之)

2015年3月号

 今年も「大斎節」が巡ってきます。
わたくし事ですが、わたしは大斎節に特別な思いを持っています。
それは、四十数年前のこの季節に、イエス様への導きを得、聖公会と言う教会での信仰の道を歩み始めたからです。
今振り返ると、何故、クリスマスや イースターと言う喜びの季節でなく、この一見地味な「慎み」の季節に、わたしは導かれたのだろう?
修道的な雰囲気をそこに感じたからだろうか? それもあるかも知れません。
でも、それよりも「待ち望む」信徒の姿、教会の雰囲気に、とても受け入れられた思いを持ったからだろう、と感じます。
楽しい場所・教会。
喜びの場所・教会。
祈りの場所・教会。
それぞれに正しい教会の姿なのですが、主の来臨を「待ち望む場所・教会」の姿も、同様に正しい教会の姿ではないでしょうか。

 たくさんの人が教会に来てほしい、という思いの中でしかし、「古臭い」と言われるかもしれませんが、主を待ち望む場所としての教会の姿は、何にもまして、人々を教会へと導くのではないでしょうか。

 大斎の祈りの中で…。

(司祭 中野准之)

2015年2月号

 信徒総会の時期です。
当然予算決算は大切ですが、教会運営を中心に、信仰を持って戦わせる「議論」も大切なものだ、と感じさせられます。

 「人は人と支え合って人となる」との、武田鉄矢扮する金八先生を持ち出すまでもなく、人と人との間で生きていくべき人間が、人との交わりを欠いて正しく生きることができるはずもありません。

 でも一方で、人との交わりで傷つき、登校拒否をはじめとして、うつ病を発症する例も数えきれません。

 人と人との交わりは不可欠ですが、あまりにも愛のない交わりが多すぎるのが、その原因ではないでしょうか?

 「たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。」(Ⅰコリント十三章二節)とのみ言葉を引き合いに出さなくても、聖書が語る福音は愛の大切さを何度も語ります。

 総会は、大切な教会の決議につながる議論があるべきですが、そこにおいても「愛のある議論」が神様より求められているのではないでしょうか?

(司祭 中野准之)

2015年1月号

 「教会ってどんなところ?」
いろいろな答えが考えられますが、「神様がおられる優しい場所」と答えるのはどうでしょう?

 二〇一五年も、社会状況は厳しさが緩まることはないように思えますし、今年に限らず「生きるのはしんどい」と感じてしまうのは、何も今に始まったことではないでしょう。
教会の経済においても決して生易しいものではありません。
しかし、その中にあっても、教会は「優しい場所」でありたい、と思います。

 「わたしは柔和で謙遜な者です。」(マタイ十一章二九節)とのイエス様の言葉の中で、私達は「優しい神様」の慰めと赦しを得ています。
だから、教会は教会に関係を持つ全ての人にとって「優しい神様」の慰めと赦しの場所となりたい。

 「年頭」には、自分自身の進むべき道を定める伝統が日本にはあります。
たとえ現実は厳しくても、神様がおられる「現実」を現す教会は、そうありたいと願います。

(司祭 中野准之)

 

荒野の声(本年度)

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