教区報「はばたく」に掲載のコラム

トップページに戻る
2018年バックナンバー

2018年12月号

 証しは信仰の証言・告白ということだといわれる。
ギリシア語では殉教・殉教者という意味もあるらしい。
命をかけた証言ということでまさに真実の表現ということになる。
ルーベンスの絵画展で「聖アンデレの殉教」と名づけられた大作があった。
アンデレはギリシアのパトラスでローマ総督アイゲァテスによってX型の十字架に磔にされ殉教をしている。
彼は、磔の状態のまま二日間十字架上から彼を取りまく二万人の人々に教えを説き続けた。
まさに命をかけた証言である。
ところでこの磔に群衆は怒り、磔を命じた総督の妻(この妻はすでに改宗していたらしい)も含めて抗議をした。
群衆の怒りの要求におそれを感じた総督は十字架から、解き放とうとした。
しかしアンデレは生きたまま十字架から降りることを拒絶し祈りを唱え続けた。

すると彼の霊は光とともに昇天したといわれている。
ちなみにアンデレは私の祖父司祭小笠原三郎のクリスチャンネームである。
(小笠原嘉祐)


2018年11月号

 夫がチャプレンを務める幼稚園に、ある二人の姉妹が通っていた。

彼女らの母は病気がちだったこともあって、子どもの通園や通学が困難な時期もあったが、生活の上でよく私を頼ってくれた。
故郷金沢に戻り療養生活に入ってからも、時折連絡をくれていたが、ある夜、無言の電話が数度かかり、その後亡くなったとご親族から知らせを受けた。
お別れも言えなかった思いと、残された娘たちのことが心から離れずにいた。

 数か月後、京都教区報に掲載された信徒の寄稿文に目が留まった。

それがどう考えてもあの親子の事と重なるのだ。
事実、彼女の入院中に起こった出来事だったことが後に分かった。

 「縁」という言葉を辞書で調べると「人と人を結ぶ、人力を超えた不思議な力。巡り合わせ」とある。

この偶然の一致である縁を頼って、この秋、彼女の足跡を訪ねる旅ができた。
多忙な中時間を割いてくださった中尾司祭はじめ金沢聖ヨハネ教会の皆様、金沢独立キリスト教会の岡田先生に、この場を借りて御礼申し上げたい。

 母親が亡くなる前、その病床で自ら望んで洗礼を受けたという姉妹に、神様の御守りが限りなくあることを祈っている。
(牛島和美)

2018年10月号

医学の進歩
医師自身が医学の進歩に驚くことがあります。
六月に福岡で開催された日本リハビリテーション医学会のキャッチフレーズは「再生をはぐくむ」で、再生医療に関する特別講演がいくつかありました。

 その中の一つ、「神経の再生」は多くの人を驚かし驚嘆の声をあげさせました。
今までの医学の常識は「末梢神経は傷ついても再生されるが、中枢神経(脳・脊髄)は再生されない」でした。
しかし「再生される」というのです。
ただ、傷ついた中枢神経すべてが再生されるわけではありません。
受傷後二週間以内に、その人の骨髄血の中の幹細胞(将来いろんな細胞に変化する細胞)を培養して、点滴で血管内に戻すと、それが傷ついた神経部分に運ばれ、傷ついた部位を修復するというのです。
注射後、数日で手足が動き出すのを、実際のビデオで見せられると、医学はここまで進歩したか、と多くの人が驚きの声をあげました。

 しかし、私は別の点で驚きの声をあげました。
幹細胞は傷害を受けた神経に注入するのではなく、遠く離れた血管内に注射するのです。
その幹細胞は傷害部位に運ばれて初めて神経再生の働きを開始するのですが、誰が標的を間違わずに見つけて運ぶのか?
創造主の大きな働きに、ただただ感嘆の声をあげました。
(井上明生)

2018年9月号

 ヨハネ福音書の冒頭に「はじめに言ことばありき」とあるが、これは表出言語のことではないことは言うまでもない。
さて声の表出器官は声帯だが、言葉を形成する舌等は本来おしゃべりのための器官ではない。
ちなみに声帯は両生類以上の生物にあって、鳥にはないが、さえずることができる。
人間は声帯に加えて舌等の口腔器官を駆使して言葉をしゃべる。
この能力は人類の起源からかなり後のことである。

 何を言いたいのかといえば、コミュニケーションは表出言語によるものだと我々は当たり前の如く理解している。
しかし、コミュニケーションは言語と非言語がある。
非言語は表情・身ぶり・顔色等、要するにしゃべらずに表現されるものである。

日常のコミュニケ―ションの中で非言語性がむしろ優位だと言われているし、これによってより感情的交流が深まる。
交通機関等のアナウンスは状況の説明ができても感情は表現できない。

 カウンセリングの中で非言語は重要なコミュニケーションバリューであって、我々は日常的に大事にしている。
(小笠原嘉祐)

2018年8月号

 九州北部豪雨からちょうど一年となる七月五日に気象庁から発表された、大雨に関する情報。

梅雨末期には毎年のようにゲリラ豪雨に見舞われるが、これはそのレベルではなさそうだ。
被災地は河川の工事もまだ途中だし、住民の不安はいかばかりか…と思い巡らせているうちに、大雨の脅威はわが町にも迫ってきた。

 自宅のすぐ横を流れる一級河川は、もはや氾濫直前。避難指示を告げるエリアメールに近隣住民も一時固唾をのんだ。

 既の所で本流の決壊は免れたものの、すぐ先の地域は、支流や水路から溢れた水で車のボンネットを隠すほどに冠水した。

翌朝、水の引いた家から被災した家財道具を運び出し、掃除に取り掛かる家主の姿が痛ましかった。

 「平成三十年七月豪雨」と名付けられたこの大雨は、西日本を中心に全国的に広い範囲で記録的な降水量と、甚大な被害をもたらしている。

 報道される各地の被災状況に言葉を失う。
無力な自分に胸が痛む。
せめて心は共にと祈る日々。
涙に暮れ、むなしく空を見つめる人々に、慰めと支え、力が与えられんことを。
(牛島和美)

2018年7月号

 「バベルの塔」補遺
はばたく、十七年六月号(五五六号)の当欄に小笠原先生が、そして十一月号には壹岐司祭が、ブリューゲルの「バベルの塔」を見た感想文を書いておられます。
私もそれに触発されて見に行ってきました。

 一般に神を恐れぬ人間の計画や挑戦を「それはバベルの塔だ。失敗して当たり前だ」といった使い方をしますが、私は創世記一一:一─九に書かれたバベルの塔に関する言葉の中で「神は、神を恐れない不遜な行動を見て、互いに理解のできない多くの言語を作られた」というくだりに注目しました。

 神は多くの言語を作られたけれど、同時に解決策も用意されました。
十五、六歳までであれば、語学は努力しなくても、環境さえ整備すれば自然にしゃべれるようになるという能力を与えられたことです。

 私は常々、障害児とその両親に、「手足に障害があっても、何かほかの人には負けない、自信のあるものを身につけてごらん」というのですが、バベルの塔の話を考えていて「そうだ! ほかの人にないもの、語学の学習、自由にしゃべれる外国語を身につけてやればいいのでは」と思いつきました。
私が相談にのっている障害児の中には、いじめられ、自信を失って行く子どもたちがいます。
自信を取り戻すための新しい治療手段となり得るでしょうか。
(井上明生)

2018年6月号

 画家シャガールの多くの連作の中に「聖書」のモチーフがある。
彼はユダヤ人でありユダヤ教徒なので、旧約聖書の題材が多い。
しかし他の作品の中には磔刑のキリストを描いた作品がみられる。
磔刑のキリストを通じてキリスト教徒にはキリストがユダヤ人であることを強調し、ユダヤ人にはキリストの十字架を見せた。
そしてそのことで二つの宗教的課題の融和を表現していたといわれている。

 シャガールはパリオペラ座の天井画等でフランスで評価され、アメリカの教会等ではステンドグラスを手がけた。
しかし彼はコミュニズム、ナチズム及び反ユダヤ主義の中で、ロシア、フランス、アメリカとその居住地を変えざるを得なかった。
反ユダヤ主義を刺激しないように芸術的表現を自制した。
結局故郷のロシアには帰らずフランスで一生を終えた。
「愛と夢と幻想の画家」といわれ、その色彩のあざやかさは私たちをひきつける。
しかしその中には自分が生きている社会の中でうまく妥協し、一方自分の真実を守っている姿もあることを感じる必要があるのだろう。
その意味で、私はピカソよりシャガールが好きである。
(小笠原嘉祐)

2018年5月号

 近所の桜を見上げながら東北に思いを巡らせていたところ、東北を訪ねるうちに今では友人となった方のご主人の急逝を知った。
訪ねるたびにいつも暖かく迎えてくれる彼女にひと言声をかけたくて、東北へ向かった。

 訪ねたのはちょうど百箇日。
宮城県の沿岸を北上した場所にある彼女の家の大きな桜の木は、その日数輪の花を咲かせた。

 そこから南下すること二百キロ余り。
原発事故により帰還が困難となった地区に桜並木がある。
一部避難指示が解除されたものの、大半は帰還困難区域とされ立ち入ることができない。
見事な桜のトンネルは、鉄の門で仕切られたその向こうにも続き、今が盛りと咲き誇っていた。

 テレビでは、廃炉作業が続く福島第一原発の構内にある桜並木が紹介されていた。
事故後、除染作業などで多くが伐採されたものの、汚染水の処理水が入った大きなタンクが立ち並ぶ構内にも春は訪れていた。

 それぞれの人がそれぞれの思いを重ねて見上げる桜。
友の心に、避難住民の心に、廃炉作業員の心に、淡い紅色の慰めを届けてくれるよう祈る。
(牛島和美)

2018年4月号

重心施設
一昨年から重症心身障害児(者)施設である柳川療育センターに週二~三回勤務しています。

 どのような人が入所しているか、省略して「重心」と言いますが、重度知的障害と重度身体障害を合わせ持っている障害児(者)です。

キリスト教は古くからこのような方たちの療育に手を差し伸べてきました。
日本最初の施設「島田療育園」(昭和三十六年)、関西地方最初の施設「びわこ学園」(昭和三十八年)、ともにクリスチャンの献身的な働きでできました。

 九州ではバプテスト教会が昭和五十一年に久山療育園を設立しました。
「重症児者の存在と命は天与の恵み(創世記二・七)」を至上の課題としています。
私が診る入所者の多くは天真爛漫です。
たとえば六十歳を過ぎた重度障害の女性が、九十歳を過ぎた母親の来所を待っている姿を見ると、幼稚園児が母親の迎えを待っている姿と同じです。

 この世でもっとも疎外され、弱い立場に立たされた方に寄り添い仕えること。
それこそがキリストがこの世で示された姿ではないでしょうか。
(井上明生)

2018年3月号

ギュスターヴ・ドレというフランスの画家がいる。
連作の版画によって聖書の中の様々の場面を表現した人である。
今風にいえばイラストレーターなのだろうか? 

聖書の物語のビジュアルでの表現は、劇的を通り越して、中には目をそむけたくなるほどの視覚的リアリティがある。

 ドレは十九世紀の画家である。
幼いころから非凡な絵画的才能を発揮し、十五歳でパリにでて、そこで「古典文学の世界」を視覚化することに情熱を傾けた。
ダンテの神曲やミルトンの失楽園等を版画で図像化した。
さらに聖書のそれぞれの場面を図像化したが、あまりに写実的かつ劇的な表現で、当時圧倒的な名声を得たらしい。

彼の制作のエネルギーが版画にそのまま表現されていて躍動的ですらある。
ちなみにこの本は日本でも出版されている。

 ドレの版画はマスプリントとして大衆的に広がった。
しかしあまりに多作をものにした為かもしれないが五十一歳で病没した。
インテリジェンスの新鮮さもあいまって、特に旧約の世界が視覚的にイメージの拡がる作品群である。
(小笠原嘉祐)

2018年2月号

昨年十一月下旬、毎年恒例の東北の旅に出かけた。

 毎回誰かを誘うのだが、今回一緒に旅をした人は教会の信徒ではない六十代の女性だった。
彼女は、震災後一度は東北に行って様子を見ておきたいと思っていた、と旅の理由を教えてくれた。

 訪ねた郡山の幼稚園では子ども達の笑顔に自分の孫の姿を重ね、被災した沿岸地域では現在も続く大規模な工事に目を見張り、震災当時の映像を見ることができる施設では自然の猛威に言葉を失っていた。

 私は彼女に「原発のすぐ横を走る国道があり、帰宅困難区域を車窓から見ることができますが、行ってみますか?」と提案した。
「はい、そうですね」と答えた言葉の末尾に、何か挟はさまったものを感じ「無理をすることはありませんよ」と言うと申し訳なさそうに「すみません、私は良いのですが帰宅したら家の者が気にするので」と正直に答えてくれた。

 避難指示解除区域は少しずつ広げられ、地元住民に帰還を勧めている。
一方、彼女のような旅行者でもその地域を通過することすら躊ためら躇う。
「それが現実なんです」と彼女に言ったようで、それは私自身に重く切なく響いた。
(牛島 和美)

2018年1月号

「守教」(新潮社刊)を読んで

帚木蓬生著、上下二巻の長編小説です。
久留米市に隣接した今村の隠れキリシタンがテーマですが、キリスト教伝来から禁教・迫害に至る歴史的史実が忠実に描かれています。

 下巻の裏表紙の帯には、〈教えを捨てた。そう偽り、信念を曲げず、隠れ続けたキリシタンたち。
密告の恐怖、眼前で行われる残虐な処刑。だが九州のその村には、おびえながらも江戸時代が終わるまで決して逃げなかった者たちがいた〉
世界の歴史の中でも、類を見ない「隠れキリシタン」がどのようにして生まれたか、その発想に至る思索の深さには、ただただ驚くばかりでした。
答えは「人身御供」。
自ら犠牲になると申し出たキリシタンを、庄屋が「どうしても転ばない村民が一人いる」と訴え出て村全体が信頼を得た、という秘史です。

 もし自分がこのような立場に立たされたらどうするだろうか、あちこちで思いにふけり、立ち止まりながら読み終えました。

 平成二十九年は今村の信徒発見百五十周年でした。
それを記念する書物でしょうか。
(井上 明生)

 

 

荒野の声(本年度)

2018年の荒野の声
2017年の荒野の声
2016年の荒野の声
2015年の荒野の声
2014年の荒野の声
2013年の荒野の声

2012年の荒野の声

2011年の荒野の声
2010年の荒野の声

2009年の荒野の声
2008年の荒野の声
2007年の荒野の声
2006年の荒野の声
2005年の荒野の声
2004年の荒野の声
2003年の荒野の声
2002年の荒野の声
2001年の荒野の声


Send mail to WebmasterE-mail: d-kyushu@ymt.bbiq.jp


日本聖公会九州教区