教区報「はばたく」に掲載のコラム

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2022年バックナンバー

2022年12月号

 数年前、当時の同級生と久しぶりに会ったときに、彼女がこう言いました。
「あたし、クリスチャンちゃうけど、お葬式は教会がいい」。
クリスチャンではなくても、結婚式を教会(といってもホテルのチャペルですが)で行う友達は多かったのですが、葬儀を教会で、と言う人は初めてでした。
彼女によると、学校の関係で教会での葬儀に出ることがあり、「教会のお葬式は、讃美歌で明るく送り出してくれる感じが良いよね。自分のときもそうしてほしい」とのこと。
彼女のこの話を聞いたときには驚きましたが、私も同じような考えを持っています。
参列者みんなで歌う聖歌は、「神様のところへ行ってらっしゃい!」という気持ちにさせてくれ、悲しさや寂しさの中にも明るさをもって、故人を送り出すことができるのではないでしょうか。

(クララ 久保希世子)


2022年12月号

 数年前、当時の同級生と久しぶりに会ったときに、彼女がこう言いました。
「あたし、クリスチャンちゃうけど、お葬式は教会がいい」。
クリスチャンではなくても、結婚式を教会(といってもホテルのチャペルですが)で行う友達は多かったのですが、葬儀を教会で、と言う人は初めてでした。
彼女によると、学校の関係で教会での葬儀に出ることがあり、「教会のお葬式は、讃美歌で明るく送り出してくれる感じが良いよね。自分のときもそうしてほしい」とのこと。
彼女のこの話を聞いたときには驚きましたが、私も同じような考えを持っています。
参列者みんなで歌う聖歌は、「神様のところへ行ってらっしゃい!」という気持ちにさせてくれ、悲しさや寂しさの中にも明るさをもって、故人を送り出すことができるのではないでしょうか。

(クララ 久保希世子)

2022年11月号

 九月十九日、英国の女王エリザベス二世の国葬が行われました。
テレビや動画配信でご覧になった方も多いかと思います。

 国葬では、コリントの信徒への手紙一 十五章二十─二十六節・五十三─五十八節、詩編四十二編一─七節、ヨハネによる福音書十四章一─六節に続き、カンタベリー大主教ジャスティン・ウェルビーによる説教が行われました。
カンタベリー大主教のホームページで公開されている説教を読むと、信仰に生きることの大切さが伝わってきます。

 それは、私たちが神さまへの信仰と奉仕を規範に生きるべきということ。
私たちは、自らの立場や野心をもとに行動しがちです。
また、よくある指導者のパターンとして、傲慢に生き死後忘れ去られると指摘します。
こうした姿は、自分中心の生き方そのもので、神さまはお望みになりません。

 神さまへの信仰と奉仕に生きることの大切さを、この説教から感じました。

(パウロ 下村仁士)

2022年10月号

 今年の長崎原爆忌、被爆者の証言ビデオを視聴した。
大けがを負った父親を大八車に乗せ、医師のもとへ連れて行ったものの、治療といえばのこぎりでの足の切断のみ。
ほどなく息を引き取った父親を荼毘に付した。無傷だった母親は、原爆症でその数日後に息を引き取った。
この方は言う。「母親の死はさすがに泣いた。でも、父の遺体を焼く時にはなぜか涙が出なかった。それを見て、大人が言うんです。親が死んで泣かんとは、あの子は鬼じゃ、と。」

 恩師から、ずっと歌い続けなさいと渡された曲がある。
「約束」というその曲の少年が、まるでこの証言者のよう。
肉親の死に、泣く感情を失った子の心情とはと長年思いを巡らしてはいたが、証言を聞き腑に落ちたと同時に身震いした。

 感情豊かな子どもから泣くことすら取り上げてしまう戦争。
愚かな行為によって子どもたちの笑顔を絶やすことのないよう、私たち大人が責任を持たなければいけない。

(ヴェロニカ 牛島 和美 )

2022年9月号

 私が勤めている幼稚園で「聖霊」のことを子どもたちに伝えるとき、「聖霊降臨の日、家の中に集まっていた弟子たちのところに、突然激しい風が吹いた」ことを話します。
どんな音だったと思う?など、想像しながら過ごします。
また、聖霊の力(知恵と理解、判断と勇気、主を知る恵み、主を愛し、敬う心)が欲しいときは「聖霊、来てください」とお祈りすると良いことも話します。

 後日、年長の子が園庭で「せいれいきてください!」と大声で言っていました。
なるほど風の強い日でした。
子どもたちの素直な行動に、「天の国はこのような者たちのものである」というイエスさまの言葉を思い出し感動します。
身の周りの自然に、神さまを感じることができる子どもたちから、いつも学んでいます。

 生活のあちこちに、神さまはうれしいお知らせをちりばめられていることに気付きます。
子どもたちから問われている気がします。
「今日あなたは、どんな自然に神さまを感じましたか?」

(ヒルダ 浜生 牧恵)

2022年8月号

 四月に赴任した長崎聖三一教会は有名な観光地に囲まれています。
観光中に教会に立ち寄る方もおられ、思わぬ出会いに恵まれています。

 ある日曜日、夕の礼拝を終えたところに、一人の観光中の学生が礼拝堂に入ってきました。
聞くと教会に入るのは初めてだとのことです。
私が礼拝堂の説明をしていると、この方が「ぶっちゃけ、教会って何なんですか?」と質問してきました。

 私は頭をフル回転させながら、「イエス・キリストが教えてくれたことを実現することで、この世界が平和になると信じている人が集まっているとこかな。」と答えました。
そして、いろんな活動の話をしながら、「イエス・キリストが願っていることをちょっとでも実現したいと考えてやっている」と説明しました。

 一期一会の出会いによって根源的な問いを与えられ、この答えを考える日々を過ごしています。感謝です。

 さて、あなたならこの問いにどう答えますか?
(司祭 バルナバ 牛島 幹夫)

2022年7月号

 「神なんているのか。」
キリスト教に懐疑的な人たちから、このように聞かれたことがないだろうか。
あるいは、信仰につまずいたとき、自分自身に問うたことはないだろうか。
そして、その答えは「いる」か「いない」かの二択しかないと思っていないだろうか。

 イエスは敵対する人々からの問いかけに対し、YESでもNOでもない返答をよくする。
また、質問に質問を返し、相手を黙らせることもある。

自分を陥れようとしてくる相手の意図を見透かし、相手の予想の斜め上をいく言葉を返すのだ。
そして、それを聞いた弟子たちや群衆は、イエスの言葉の中に神の存在を知ることになる。

 このように、イエスの一見ひねくれた返答の中にこそ、神の言葉=真理が隠されているのではないか。
そして、それに気付き、分かち合い、伝えることこそ、わたしたち信徒の務めなのだと強く思う。

 さて、冒頭の問いかけへのわたしの答えはこれだ。
「神のもとにわたしはいる。」
(モーセ 酒井 健)

2022年6月号

 デイサービスでリハビリの仕事をしていると、高齢の利用者さんから「家族が亡くなって、ひとりぼっちで寂しい。」という話をときどき聞きます。
そんなときは「ここに来たら私たちがいるでしょう!」と言って励まします。

 私は、ひとりで過ごす時間が好きではあるのですが、利用者さんが言う「ひとりぼっち」は別物。
もし自分も同じ状況になったらどうなるのか、と考えてみました。
私の周りにいてくれる家族や友達がいなくなったら…あれ、でも教会はずっとあるじゃないか。

いつもの教会には、同じ神様を信じる老若男女さまざまな仲間がいるし、生活の拠点が変わったとしても、その土地の教会でも自分が慣れ親しんだ祈祷書や聖歌集を使って礼拝しているじゃないか。
もしひとりでいることに寂しさを感じるようになったとしても、教会に通っていればどうにかなる、という結論に至りました。
寂しがっているかもしれない未来の私に言っておくことにします。

 「教会があるでしょう!」

(クララ 久保希世子)

2022年5月号

 先日、「博多駅の誕生と移転の歴史」という雑誌記事を執筆する機会に恵まれました。

博多駅についての史料を紐解くと、飯塚と直方を経由して黒崎や小倉へ向かう私鉄電車が乗り入れる構想があったことが記されています。
この構想を明治時代にまでさかのぼると、長崎街道に沿って折尾と飯塚を結ぶ予定だった路面電車にたどり着きます。

 ところで、この路面電車が興味深いのは、聖公会の教会のすぐ近くに電停の建設が予定されていたことです。
直方の電停は直方キリスト教会のすぐ横に、飯塚の電停は、かつての飯塚聖パウロ教会の近くに建設される予定でした。

 長崎街道は、様々な文化を伝えてきました。
私たちの信仰も、この道を通って広まっていきました。
そんな歴史を振り返ることができれば、と思います。

 そして直方と言えば、直方キリスト教会の塚本祐子先生が司祭按手を受けられました。

新たな司祭が神さまから与えられた喜びに感謝です。

(パウロ 下村 仁士)

2022年4月号

 春は芽吹きの時、自然界も人の心もざわつくものだ。
新年度を迎え、生活する場所や環境が変わった方もあるだろう。
転居や同居人の増減は鬱になる大きな要因の一つと言われている。
仲間や心の故郷を手放さず、たまに息抜きできる方法を持ちながら、ゆっくり新天地に馴染んでほしい。

 思い出すのは、離島の別れの風景。
フェリーからたなびく色とりどりの紙テープやブラスバンドの演奏。
離岸するフェリーの汽笛がこの時期だけは長く鳴らされ、町にも聞こえてくる。
島で得た親友を見送った時、港の喧騒を離れ対岸で一人、傘をさして立ちフェリーを見つめた。
親友は甲板から私を見つけ、お互い大声で泣きながら、言葉にならない別れの言葉を叫び合ったのも今は懐かしい。

 近くに引っ越すことになったよと連絡した時、今度は喜びの叫びをあげてくれた親友に早速会いに行こう。
そして新しい町の新しい空気をゆっくり吸い込みながら、私も新しい芽を芽吹かせたい。

(ヴェロニカ 牛島和美)

2022年3月号

 「こころの風景」と聞いてどんな景色を思い浮かべますか?

 わたしがこの時期思い出す風景は、以前勤めていた幼稚園の送迎バスから見る、久留米の街中です。
いつもと変わらない建物の間に、梅→桃→桜と花が咲いていく様子です。

筑後川の菜の花も明るい色を加えます。
この「春のリレー」を毎年心待ちにしていました。

「さあ咲きなさい」と誰に言われるでもなく、褒めてもらおうというのでもなく、自分の使命を淡々と果たしていく花々の姿や香りに、元気をもらっていました。

 ある時、花壇の花を一緒に見ていた方に「聖書の中の『あなたがたのために』を『あなたのために』と読み替えてみると、恵みに対して違った感じ方が出来るよ」と教わったことがあります。
そんな思いで周りを見回すと、神さまが『わたし』のために用意してくださっている恵みの何と多いことでしょう!

 日常の疲れの中でも、神さまからの恵みを受け止められる余裕を大切にしたいものです。
(ヒルダ 浜生 牧恵 )

2022年2月号

 昨年末、南アフリカのデズモンド・ツツ大主教が逝去されました。
アパルトヘイト政策による人種差別と闘いノーベル平和賞を受賞したツツ大主教の言葉にあらためて接する機会となりました。

 ツツ大主教が文章を書いた「かみさまのゆめ」という絵本があります。
彼はこの絵本の中で「わたしたち ひとりひとりの なかには かみさまの こころの かけらが あるんだよ。」と言っています。

ツツ大主教は、全ての人が神の似姿として創造されていること、そして全ての人が神の愛する子どもであるということを、その歩みを通して示しておられたのだと感じます。

 降誕後第一主日、その特祷で「全能の神よ、あなたは驚くべきみ業によりわたしたちをみかたちに似せて造られ、さらに驚くべきみ業により、み子イエス・キリストによって、その似姿を回復してくださいました。」と祈りました。

 創造のみ業を回復するイエスの歩みを共に歩んでいきたい、そう願っています。

(司祭 バルナバ 牛島幹夫)

2022年1月号

 一年の計は元旦にあり、というがこれが難しい。
教会暦ではすでに年が変わっている。

それも、クリスマスではなく、クリスマスの準備を始める日に年が変わっている。
キリスト教で最も大切にされる日は、誕生を祝うクリスマスではなく、死と復活を記念するイースターである。
しかもそれは固定された日ではなく、毎年変わる。

 教会生活を送っていると、世間一般のカレンダーとは異なる感覚を持つようになる。

キリスト教徒がマイノリティであるこの国では、さぞかし奇異に映ることだろうが、逆に考えると、この国で暮らすキリスト者の特権なのかもしれない。

 わたしにとって、「計」となる日はいくつもある。
それは、自分にとって大切な日。
教会暦にも日本の暦にもない特別な日もある。
その日を大切にして、思いを新たにする。
そしてまた、一年が過ぎる。

 それぞれの思いの中で、大切な日を「計」とする。
難しいことではない。
一年の計は、簡単である。

(モーセ 酒井 健)

 

 

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