教区報「はばたく」に掲載のコラム

トップページに戻る
2024年バックナンバー

2024年12月号

 「私たちは、今の生活を続けたいだけなのです」とエナイボルクルム村の長老ジャクソンは言った。
牛の放牧を生業とするマサイの生活は、ケニアでも危機に瀕している。
破壊の一端を担うのが義務教育とキリスト教会である。
でもキリスト教会はマサイを助けてもいる。
隣国タンザニアでは、数年来政府が十一万人のマサイをンゴロゴロ地域から強制移住させようとしているが、今年8月村人たち数千人が結集し、観光ルートを占拠して抗議活動を行った。
その彼らを励まし続け、闘う勇気を与えたのは、地元の主教である。
このようなアフリカの現実を知ると、キリスト教徒であることに居心地の悪さを感じることもあるが、その一方で希望も見出す。
「神はすべてを時宜(じぎ)にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。それでもなお、神のなさる業を始めから終りまで見極めることは許されていない。」(コレヘトの言葉3:11)すべては信じるのみである。
(西﨑 緑 ・福岡聖パウロ)



2024年12月号

 「私たちは、今の生活を続けたいだけなのです」とエナイボルクルム村の長老ジャクソンは言った。
牛の放牧を生業とするマサイの生活は、ケニアでも危機に瀕している。
破壊の一端を担うのが義務教育とキリスト教会である。
でもキリスト教会はマサイを助けてもいる。
隣国タンザニアでは、数年来政府が十一万人のマサイをンゴロゴロ地域から強制移住させようとしているが、今年8月村人たち数千人が結集し、観光ルートを占拠して抗議活動を行った。
その彼らを励まし続け、闘う勇気を与えたのは、地元の主教である。
このようなアフリカの現実を知ると、キリスト教徒であることに居心地の悪さを感じることもあるが、その一方で希望も見出す。
「神はすべてを時宜(じぎ)にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。それでもなお、神のなさる業を始めから終りまで見極めることは許されていない。」(コレヘトの言葉3:11)すべては信じるのみである。
(西﨑 緑 ・福岡聖パウロ)

2024年11月号

 北条民雄の作品を読んだことがありますか?ハンセン病を題材に執筆します。
川端康成に認められ、自身が患ったハンセン病を題材とした「いのちの初夜」で第2回文学賞を受賞。
21歳で入院し24歳で亡くなるまで、自身のハンセン病が進行することを恐れ不眠症に苦しみ何度も自殺を試みますが、文学への情熱に助けられて苦しく短い一生を生き抜きます。
特効薬の無かった頃のハンセン病重症者への苛酷な表現描写があります。
しかし絶望の中でも運命を受け入れて生きようとしている重症病者と生活するうちに彼等に対して深い尊厳を覚えるようになります。
川端康成の勧めもあってドストエフスキー等の文豪を読み、キリストに出会い、亡くなる時はキリスト者として召されました。
北條民雄は、望まなかったハンセン病を生きる事によって病の悲惨さを正確に伝え、どの様な状況にあっても生き抜く人間の強さと尊厳を証する作家として神様に選ばれたと思います。
(馬越 隆子・福岡ベテル)

2024年10月号

 IT機器は、幼児から使用できる娯楽や通信等の多彩な機能をもつ機器として急速に発達した。
ゲームに興じる子どもの姿を目の当りにし、健康に悪影響をもたらす恐ろしい道具ともなる懸念を抱く。
SNS上での誹謗中傷事件にも心が痛む。
真実とは異なるフェイク情報を一瞬にして全世界に伝えることが可能となり、人の命を奪う凶器ともなる。
勤務校で、相手を言葉で傷つける差別事件が起こった。
その背景には、相手を苦しめ、優位に立ちたいという思いがあった。
話し合うことなく、自分が快楽へと向かう短絡的な行いだった。
福音書「人から出てくるものこそ、人を汚す」の言葉に振れたとき、様々な出来事に重なった。
神のみ心に叶う行いができるよう願う自身の行いについて考えた。
宣教協議会からの呼びかけ
「神のみ声に耳を傾けよう 人々の声に耳を傾けよう 世界の声に耳を傾けよう」
の日々の小さな行いが、気づき、寄り添い、ともに歩むことにつながると。
(川﨑 祐子・鹿児島)

2024年9月号

 わたしたち直方教会では、毎年教会訪問をしています。
きっかけは直方セントポール幼稚園が改修工事で資金不足になり、九州教区の諸教会に支援をお願いするために信徒1人、又は2人でお伺いしました。
礼拝の後、どの教会も暖かく迎えてくださり協力してくださいました。
それがうれしくて忘れられず、教会委員会で話し合われ、「直方教会として訪問し、合同礼拝を希望する」と決まりました。
牧師をとおして相手の教会にお願いした所、快く受け容れてくださいました。
わたしたちの教会は小さなむれのため、さびしい礼拝の時があります。
合同礼拝だと礼拝堂いっぱいに聖歌が広がり楽しいのでは!そのとおりでした。
コロナの影響で3年中止になっていましたが、昨年は大口聖公会への訪問でした。
遠いので泊りがけです。
何か学生時代の修学旅行に行く気持ちでした。
今年はどの教会を訪問できるのか、また新たな出会いができればと楽しみにしています。

君原 實(直方)

2024年8月号

 今年6月8日、リデル、ノット、ライト顕彰会の春季記念祭に参加させていただいた。
滋賀大の阿部安成教授の「青木恵哉とともに考える」の講演を伺いながら、ハンナ・リデルとエダ・ライトの働き、そしてその背後にある神の摂理について改めて考えさせられた。
思えば、リデルが本妙寺でハンセン病患者と出会ったこと、ライトが患者たちの母としてケアを続けたこと、リデルから命を受けた青木恵哉が沖縄伝道に向かったこと、そのどれをとっても、神が複合的差別に苦しむ患者一人一人を心に留めておられたことを表している。
なお両女史記念館では、青木師の説教録音が阿部教授の労によりデジタル化されたことを記念して、青木恵哉展を来年1月末まで開催している。
教区のみなさんの訪問をお薦めしたい。
そして私たちも青木師の説教で引用されたルカ伝10章23節のよきサマリア人のたとえと「その如くにせよ」というイエスの言葉を体現すべく努力していきたい。
(西﨑緑・福岡)

2024年7月号

 今年の春も復活祭、昇天日、聖霊降臨日と、キリストの十字架が成就された後に起こった神様の恵みの奇跡を思い巡らす。
恵みを受けるに値しない私を神様は選んで下さった。
恵みに相応しいキリスト者でありたいと願う。
しかし自分の信仰を省みると、苦しい時の支えとしての信仰であって、イエス様の弟子と言う意識があまり無かった。
弟子とはイエスに従い福音を述べ伝える者であること。
どうすれば良いのか。自分の生き方を通して周りの人々にイエス様のことを証すること。
互いを大切にし、愛し合うこと。
頭では理解出来ても実践するのは難しい。
自分の持って生まれた殻を破り自分の限界を超えて信仰が成長するように神様に縋(すが)って祈りたい。
『なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために目標を目指してひたすら走ることです。』(フィリピの信徒への手紙3章)

(馬越 隆子・福岡ベテル)

2024年6月号

 祖母の傍らにはいつも聖書があり、時に「神は愛なり」の言葉を私に伝えていました。
当時は深く考えることも、感じることもなかった祖母の言葉が、今になって心に響くようになりました。

 教会での役割を頂くようになってから、主日礼拝に出席し、聖書のみ言葉を聴いたり、説教を聴いたり、人々と交わることに喜びを感じられるようにもなりました。
自分の時間を生きるのが精一杯で心の余裕を持てずにいる日々が続いた時は、ことさら聖書のみ言葉や説教の言葉が心に沁みます。
神のみ言葉に自身のあり方を重ね、悔い改めをすることも度々。
先日の礼拝で、ヨハネによる福音書10章14節「…わたしは自分の羊を知っており、羊も私を知っている…」というみ言葉に出あった瞬間、今までにない喜びを感じました。
本当に不思議な瞬間でした。
この感覚は何だろう?
祈りの中で唱える「み心にかなう行い」を自身の生き方に問いながら歩んでいきたいと思います。
(川﨑 祐子・鹿児島)

2024年5月号

 グランドゴルフ仲間から採れたて野菜のお裾分けを受ける。
現役を退いても、畑仕事なしではつい寂しくなって庭に畝(うね)を作ってしまう筋金入りの農夫達だ。
精魂込められた作物の姿はなんとも逞しい。
イエス様が喩えられる「よい実が穫(と)れるよい木」はこういう人なのだろう。
信仰を育てるために自分はそれ程の時間や気持ちをかけているだろうかとフト比べてしまう。

 信仰を培うために<信仰的生活はアレかコレか>と、追い駆けるのは信仰生活ではない。
誰が自分の生活を信仰厚いとかいい加減だとか測るのか?…主である神以外にない。
実は《信仰がない》というのが私の口癖になっているらしい。
教会でもタマに笑われている。
こうして考えると、この口癖は笑いごとであり自分で測定できるものではないのだった。
残念ながら野菜のようには成果は分からないが、兄弟や教会の友との交わりにあり祈る<自分>をただ主に委ね、春草の伸びるグランドに出掛けて行こう。 
(君原 實 ・直方 )

2024年4月号

 2月18日開催された熊本城マラソン。
1万4千余人の参加者の中にひとりの義足の女性がいた。
教え児のYさん(46)だ。
彼女は6年前に感染症をきっかけとする「電撃性紫斑病(でんげきせいしはんびょう)」を患い両脚の膝下とほぼ全ての指を切断した。
その当時担当医師に「どうして死なせてくれんかった。」と怒りをぶちまけた彼女だったが、医師は親身になって支えてくれた。

その後、絶望のどん底から持ち前の負けず魂を奮い立たせてフルマラソンに挑戦する。
トレーナーや義肢装具士など多くの人の支えを得て3度目の挑戦で見事完走したのだ。
所要時間5時間57分29秒。彼女の精神力の強さはどこからくるのだろうか。

ヨハネによる福音書9章2~3節には「神のみ業がこの人に現れるためである」とあるが、彼女はまさに障がいを負と捉えず、可能性ある未来を前方に見据えたのではないだろうか。
小学1年時、積極性と芯の強さをほめた私の書いた通知表を今も大切に保管し心の支えにしてくれているという。

完走す義足に溜(た)まる汗拭(ぬぐ)い
冬晴れや義足ランナー完走す
(平岡 加久子・熊本)

2024年3月号

 「面白いことをやろう」私の周りではこの言葉に共感する人がたくさん集まっているように感じる。
好奇心が強い半面厭世的で、気分に流され、怠け者の私は、下手をするとわがままで寂しい人生を送ることになっていたかも知れない。
しかし、幸いにして面白いことが大好きな仲間に恵まれていると感じる。
ところで、この「面白いこと」というのは一体どのようなことを指してそう感じるのかが気になる。
どうも、「希望に向かっていること」、それが「面白いこと」なのではないだろうか?
神様と関係がありそうである。
自らを棄て愚かな我々にも手を差し伸べてくださる神様との出会いは、私に希望を与えて下さった様な気がする。
「である」が横行現状維持優先的な社会では、どうも堅苦しいことや面白くないことが多く、また挑戦「する」ことへの抵抗力が大きいと感じている。
面白いことが好きな連中と少しずつでも進んでいきたいものである。
教会に導いて下さった方は、怠け者の私に「希望」というかけがえのないものを与えて下さった。

(早瀬 隆司・長崎)

2024年2月号

 2024年を迎えたばかりで起きた能登半島の大地震。
そのニュースを聞きながら、この最後の「荒野の声」の原稿を書いている。
国内外で起こり続ける惨事や温暖化等の深刻な問題に、「希望」はあるのか、と不安にならずにはいられない。

 昨年最後に手にした本が『夜明けを待つ』。
著者は、生と死をテーマに書き続けたノンフィクション作家の佐々涼子さん。
彼女自身が「希少がん」を患い、余命を宣告される。
希(まれ)ながんだから「希少がん」と呼ばれるのだが、「希少」を「希望が少ない」のではなく、限りある人生でも「希望もある」と前向きに捉えている。

 人は、自然災害に限らず、生きていれば大なり小なりいろいろな惨事に出会う。
佐々さんのように、「絶望」から「希望」への捉え直しができるかが、生きる力にもなるのだろう。
余命宣告ほどではないにしても、絶望する体験に遭遇したことがあった。
そんな時、「わたしは弱い時にこそ強い」という聖句に励まされたことを思い出した。

(菅 孝子・大分)

2024年1月号

 私はよく散歩する。
その日の気分によって行く方向を決めて歩き出す。
空・雲・川・鳥・草花等目にするものみな麗しい。

その美しい自然と人々の営みを観察しながらいつも想像するのは今、あのマンションがこの橋が爆撃されたら忽ち自分も巻き込まれてしまうだろうということだ。
今世界で起こっている戦争や紛争は実に地獄絵のような恐ろしい状況である。
私達は一日でも早い終結を日々祈っている。
しかし一時的に停戦して人質交換があっても何ら解決には至っていない。
新年に当たり私達は絶望をどう立て直し、何を目標に生きていけばいいのか。

イザヤ書43:19(聖書協会共同訳2018年度版)にはこうある。
「見よ、私は新しいことを行う。今やそれは起ころうとしている。あなたがたはそれを知らないのか。確かに、私は荒れ野に道を荒れ地に川を置く。」
辛いことにうちひしがれていないで、新しいことを力強く実行される神を信じて起(た)ち上がろう。

「初(はつ)御空(みそら)神のみ技を信じ起(た)つ」

(平岡 加久子 ・熊本)

 

荒野の声(本年度)

2023年の荒野の声
2022年の荒野の声
2021年の荒野の声
2020年の荒野の声
2019年の荒野の声
2018年の荒野の声
2017年の荒野の声
2016年の荒野の声
2015年の荒野の声
2014年の荒野の声
2013年の荒野の声

2012年の荒野の声

2011年の荒野の声
2010年の荒野の声

2009年の荒野の声
2008年の荒野の声
2007年の荒野の声
2006年の荒野の声
2005年の荒野の声
2004年の荒野の声
2003年の荒野の声
2002年の荒野の声
2001年の荒野の声


Send mail to WebmasterE-mail: d-kyushu@ymt.bbiq.jp


日本聖公会九州教区